ロイド氏は説く その20 主を眺めるがいい。眺めつづけるがいい。

  • 2013.05.01 Wednesday
  • 17:30

ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

主を眺めるがいい。眺めつづけるがいい。


テキスト要旨

私は心の貧しい者だろうか?神との関係において、神の御前における自分をどう感じているだろうか。私は何を口にし、何を祈り、何を考えることを好んでいるだろうか。私は自分の手柄でないものを誇り、神の御前に立つ日には無とみなされるものを誇っていないか。

 

人はどうすれば『心の貧しき者』になれるのだろう。答えは、自分自身を眺めたり、自分自身でことを行うことから始めないことだ。ただ神を眺めることである。神が私たちに期待していることを眺め、主イエス・キリストを眺め、福音書の主を目の当たりにするように主を見ることである。主を眺め、眺めつづけるがいい。聖徒たちを眺めるがいい。御霊に最も満たされ、用いられてきた人々を眺めるがいい。しかし、何にもまして、やはり主を眺めるがいい。

 

ロイド氏の著書のどこを開いても『心の貧しき者』が論じられ、説かれています。この箇所もそうです。思えば、教会ならずこの世でも『心の貧しき者』を冒頭とする山上の説教ほど、多く取り上げられる聖書箇所は他にはないでしょう。説教を聴き、書物を読めばいっとき心に納得がいき、いい気分になります。まるで自分が山上の説教の実行者であるような気がします。あるいは、みことばの光に打たれて恐れおののきつつも、しょせん弱い罪深い人間だものと、開き直って、いい加減な立ち上がりをして、また己道を歩み出してしまいます。

 

ここでロイド氏は『心の貧しき者』とはイエスを眺めつづけることだと説きます。自分を見るのではなく、イエスを眺めつづけることだと繰り返します。視線を変えることだと教えます。イエスを仰ぎ見ると、イエスが発する聖霊の光に包まれるのでしょう。自分を見たって光なんてどこからも差してきませんから。聖霊の光は温かくて清くて平安を与えてくれるでしょう。平安に包まれるとき、自己主張して突っ張ることも、自己保身のためにつまらぬもので身を虚飾する必要もないでしょう。思い煩いの罪からも解放されるでしょう。イエス様を見続けていたいと思います。目をそらさずにいたいと願います。

ロイド氏は説く その19

  • 2013.04.13 Saturday
  • 22:16


ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

ひとり子を惜しまず与える主

テキスト要旨

ある日、ひとりの農夫がさも嬉しげに家族と細君に知らせた。彼らの最上の雌牛が双子の子牛を産んだという。一頭は赤で、一頭は白。彼は言った「ひらめいたことは、一頭は絶対主にささげなくてはいかん。時期が来たら一頭は売って自分のものに、もう一頭は売ったものを主にささげるのだ」細君はどちらをささげるのかと訊くと「両方とも同じように育てて、今言ったようにしよう」。何か月もしないうちに、男はしょんぼりとして細君に言った。「まずいことになった。主の子牛が死んでしまった」細君は「どっちが主の子牛か決めてなかったじゃないの」と言った。「決めてたさあ。ずっと白い方にしようと思っていたが、その白いのが死んでしまった。主の子牛が死んでしまった」と言った。

 

この話を聞いて笑うかもしれない。しかし笑い事ではない。死ぬのは決まって主にささげる白い子牛なのである。家計が苦しくなると、私たちが真っ先に切り詰めるのは献金である。いつでもそれが最初である。自分が好きなことを削るのは最後なのである。こうしたことにどのような態度を取るかで、究極的に神と私たちとの関係が決定する。「主よ、主よ」といくら呼びかけても、それ自体としては神に仕えている証拠にはならない。

 

胸にグサリとつきささる話である。心の内を見透かされたようでひやりとする。ほんとうに笑っては済まされない。日ごろ「あなたを愛します」「わたしのために死んでくださって、よみがえってくださって、御国の民としてくださる恵みを感謝します」「すべてはあなたのもの、あなたが与えてくださったもの、あなたのものを管理しているに過ぎないのです」「あなたにすべてをゆだねます。生も死も」「明日のことは思い煩いません。あなたのもとに重荷を下ろします」そんな祈りをささげながら、一人前のクリスチャンの顔をしているけれど、ひとたび生活が脅かされそうな気配があると、まだ、窮地に立たされて、三食に事欠くずっとずっと前に、守りの態勢に入り、主を後回しにする。ああ、申し訳ない、恥ずかしい。伏して悔い改めます。レプタふたつのやもめに倣わねば。

 

ロイド氏は説く その18 いかに祈るべきか

  • 2013.03.30 Saturday
  • 11:01


ロイド氏は説く その17 いかに祈るべきか
 ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

いかに祈るべきか

テキスト要旨

いかに祈るべきか

多くの人々は、祈っても祈っても何も起こらず、心の平安も得られず、何の満足も得たと思えないという。これは祈りに対する取り組み方が間違っているからだ。私たちはあまりに自己中心になりがちであり、神のみ前にひざまずいても自分の問題や困難のことしか考えない。いきなりそれらについて語り始める。それは神に近づく仕方ではない。口を開く前に、一呼吸置かなくてはならない。いかなる人も祈り始める時は、手を自分の口にあてるべきである。これがヨブの最大の問題であった。彼は自分が神からむごく扱われていると感じた。それで自分の感情を思う存分あらわした。しかし、神がご自分を現わしとき、ヨブは、私は手を自分の口に当てるばかりですと言った。あなたは何も言わないで祈りを始め、自分が何をしようとしているのか想起することである。これは大変困難なことである。切迫した状況、不安、思い煩いでおしつぶされそうになっている。しかし神と交わり、神の永遠の腕を自分の周りに感じたければ、しばしの間、手を口に当てるがよい。

 

口を手に当てるとは黙ることでしょう。口は自分の意志で開くも閉じるも自由自在にできるはずですが、手を当てておさえなければすぐに開いてしまう、バネの壊れた箱なのかもしれません。特に祈りの時に饒舌になりがちです。

神さま、あなたはすべてを御存知ですと言いながら、一つでも言わなかったら知ってもらえない、叶えてもらえないとばかり、状況説明を繰り返します。くどくどと。イエス様がお嫌いなパリサイ人の祈りを平気でしてしまいます。熱心に絶えず祈れとあるからと、最初から最後まで口を開きっぱなし、しゃべりっぱなしです。これがすばらしい祈りだと疑わない人もいます。もちろん、集会などの公の祈りの時、長く沈黙し、祈ってはまた沈黙していては困ります。公の場の祈りは、簡潔明瞭に、その集会にふさわしい祈り方があるでしょう。

ここで問題にしているのは、密室の祈り、一人で祈るときのことを指していると思われます。私は詩篇
16篇の『私は常に主を私の前に置いた』を思いつつ、静まるようにしています。時にせっかちに危機を訴えることもありますが。『口に手を当てよ』とは祈りのたびごとに思い起こしたいことです。主の臨在をたましいの耳でキャッチしてから、主の御名を呼び求めたいと思います。



『汝、静まりて、我の神たるを知れ』
古い訳のみことばですが、至言です。

 

ロイド氏は説く その17

  • 2013.03.18 Monday
  • 08:34
 

ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

ユダ族から出た獅子

テキスト要旨

罪は外部から人間の中へ入ってきた。そして、神の御子をさえ攻撃した。私には新しい性質があるが、なお、この恐ろしい力は、私を敗北させようと躍起になっている。この敵に太刀打ちできる人間はいない。いかなる人も失敗してきた。では、一縷の望みもないのか、否である!ダビデはゴリヤテを打ち負かした。ヨナタンはペリシテ人を敗走させた。神の御子、ナザレのイエスはすでにサタンを打ち負かされた。死と墓を打ち負かされた。このユダ族から出られた獅子は勝利を得られた。ご自分のためばかりでなく、私たちのための勝利を得られ、その力を私たちに与えようと申し出ておられる。このお方にあって私たちは圧倒的な勝利者となることができる。それはあらゆる時代のキリスト者たちの人生によって証しされている。

 

ロイドの論理展開は明快です。福音の真理をまっすぐに猛スピードではありますが明快に教えています。近頃の世相から例えれば時速320キロの東北新幹線ハヤブサのグラングラスの席に座して、イエス様とお会いしているようです。ユダ族の獅子は、むごたらしい十字架の上で息絶えられましたが、3日の早暁、圧倒的な勝利者としてよみがえられました。

イエス様の御ころもからはマリヤの香油が香りたかく匂っていたかもしれません。

それにしても、私たちの現実は、時にみじめです。あっという間にサタンに足をすくわれ、蹴り倒されてしまいます。深傷を負ってうめくこともあります。耳もとにサタンの高笑いが聞こえてきます。敗北の原因を冷静に考えてみますと、時に『よく孕んで、罪を生み、罪熟して死を産む』が多いのではないでしょうか。小さな目に見えないような欲(己の利益、自己主張、無慈悲、目の欲、怒り、憤り)が、心の隙間から忍び込んでくるとき、気が付くと、大きな敗北をしているのです。

 

ユダ族の獅子、イエス様のご生涯を思い描き熟慮する時、深い悔い改めに導かれ、罪赦された代償としての主の平安に導かれ、晴れ晴れと立ち上がることができます。サタンの罠を見破り、避けて通り、あるいは神の武具でサタンの火矢を消して、圧倒的な勝利者となりたいものです

ロイド氏は説く その16

  • 2013.03.06 Wednesday
  • 19:24

鴨

ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

キリストにある新しいいのち

テキスト要旨

キリスト者とは単に、自分には何か素晴らしいことが起こりましたと言うだけの者ではない。その人は「自分のうちにある希望について弁明する」(汽撻謄315)ことができるし、それをいとわない。そのキリスト者はかつて教理を示され、真理を受け入れた。その人の知性のもとにやってきた。それは常に知性から始まらなくてはならない。真理は知性と聖霊によって光を受けた理解力のもとにやってくる。真理を見たときキリスト者はそれを愛するようになり心が感動させられる。そして実践、実行へと向かう。

 

自分がキリストにつなぎ合わされて、キリストの死と同じようになっていること、それゆえに、キリストとともによみがえっていることを悟っているなら、罪の中にとどまり続けることはできない。自分がキリストとともによみがえらされたことを知り、信じている人は必然的にキリストとともに新しい歩みをしたいと願望するのである。



キリスト者は、修行僧ではないのです。歯を食いしばって難行苦行して善行をするのではないのです。自力で性格や生活改善に挑戦するのではありません。キリスト者が道徳的倫理的に高いところを歩めるのは、キリストに救われた者の体内には復活の主が宿り、生きておられ、活発に活動しておられるからです。≪我、もはや生くるにあらず、キリスト我が内にありて、生くるなり≫なのです。

 

しかし救われたからと言って自動的にスイッチが切りかわって善行へと作動するわけではありません。人間はロボットではありません。神様はどこまでも私たちを一人の人間として人格として有機体として、自由に選択して生きる意志を与えておられます。私たちの選択を、意志を、内にいます主にゆだね、主に従うのか、あるいはサタンの誘惑や攻撃に従うのかは生かされている個人の責任です。

 

しかし現実は、我が内にいます主に完全に占領されあらゆることに勝利していただきたいと切に願いつつも、時に敗北し苦杯を呑むこともあります。聖化の途上にある私たちが完成されるのは、天の御国に帰った時なのでしょう。この世は罪との苛烈な戦場なのです。一回でも多く主にあって勝利し、救い主のみこころにかなうものでありたいと切望します。比類なき救いに与った者として。

 

 

ロイド氏は説く その15

  • 2013.02.27 Wednesday
  • 14:47
 

ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

テキスト要旨

こころの貧しい者――神の恵みに富む者

 

こころの貧しい者の意味とは――

イザヤが5715節で言った通りのことである。『私は高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである』。たとえばギデオンのような精神の人である。モーセの精神でもあった。ダビデにもみられる。『主よ。私は何者なのでしょう。あなたがこれを訪れてくださるとは』。イザヤも『私は唇の汚れた者だ』と言った。それが『こころの貧しい』者である。新約では、使徒ペテロのような人である。彼は生来、進取の気性に富み、自己主張が強く自信家であった。しかし彼は主を知った時『主よ、私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから』。しかし彼は決して大胆な人間であることをやめない。神経質にも内気にもなっていない。本質的な個性はそのままである。同時に『こころの貧しい』者なのである。

 

山上の説教『こころの貧しい者は幸いです』の一節を知らない人はいないでしょう。一般の世の中の人でも時に口にします。たくさんの偉人たちのご高説にも接します。しかし、これほど説明するのに難しいものもないでしょう。イエス様の言われた真意をくみ取るのは容易ではありません。その真理は深淵です。しかしよく考えてみますと、イエス様はそんなに難しいお話をされたのでしょうか。イエス様のお話はいつも大変わかりやすいものでした。たとえを使ったりしてだれにでもわかるようにお話しされました。

 

山上の説教を聞いたのは、おもに弟子たちでした。弟子たちは律法学者やパリサイ人のように神学?に精通した人たちではありませんでした。知識階級出身ではありませんでした。

弟子たちの周りにいた群衆はさらにアカデミックではなかったはずです。イエス様は対象の知的霊的情緒的状態を無視しては話さなかったと思います。とすると、『こころの貧しい者』の意味も、聞く人たちに納得のいくものだったのではないでしょうか。

 

ロイド氏が例を挙げたイザヤ、モーセ、ギデオン、ペテロたちの生き方を聖書から見ると、わかってくるような気がします。私もイエス様が幸いだと言われる『こころの貧しい者』でありたいと思います。

ロイド氏は説く その14

  • 2013.02.22 Friday
  • 22:37

梨

 

ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

イエス・キリストという事実

テキスト要旨

神は自然の中にご自分を啓示しておられる。歴史の中でもご自分を啓示しておられる。また、旧約時代の先祖たちにもさまざまな仕方でご自分を啓示してこられた。しかし福音主義のキリスト者である私たちは、イエス・キリストという偉大な中心的事実から出発する。新約聖書はこのお方で満ちている。パウロはコリントでは「イエス・キリストすなわち、十字架につけられた方の他には、何も知らないこと」にした。私たちはそこへ戻らなくてはならない。私たちはキリストを強調し、キリストを宣言し、キリストから出発する。キリストこそ究極であり最終的権威である。新約聖書の全体は声を大にして主張している。

 

讃美歌121番を思い出します。

 

馬槽(まぶね)のなかに うぶごえあげ

木工(たくみ)の家に 人となりて

貧しきうれい 生くるなやみ

つぶさになめし この人を見よ

 

食するひまも うちわすれて

しいたげられし 人をたずね

友なきものの 友となりて

こころくだきし この人を見よ

 

すべてのものを あたえしすえ

死のほかなにも むくいられで

十字架の上に あげられつつ

敵をゆるしし この人を見よ

 

この人を見よ この人にぞ

こよなき愛は あらわれたる

この人を見よ この人こそ

人となりたる 生ける神なれ

 

もう一つの賛美、聖歌521番を思い出します。

 

キリストにはかえられません 世の宝もまた富も

このお方でこころの満たされてある今は

世の楽しみよされ 世のほまれよゆけ

キリストにはかえられません 世のなにものも

 

キリストにはかえられません 有名な人になることも

人のほめることばも このこころをひきません

 

キリストにはかえられません いかに美しいことも

このお方でこころの満たされてあるいまは

 

続いて思い出された讃美は聖歌487番です

 

めぐみある主まさずば ひとときだに 得耐じ

(折り返し)わが慕う主よ ああ めぐみませ 今 汝がもとにゆく身を

 

ともにまさば安けし いざなう者去りゆかん

 

君まさずばこの世の ものみな意味なし

 

なさせたまえみむねを みやくそくのごとくに

 

ささげまつるこの身を うけいれませ我が主よ

 


パウロの絶叫が聞こえます。
『我にとりて 生くるはキリスト―――』


『我、キリストとともに十字架につけられたり。もはや我 生くるにあらず。
キリスト我がうちにありて生くるなり』

 

ロイド氏は説く その13

  • 2013.02.14 Thursday
  • 10:52
 

ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

あなたの宝のあるところに、あなたの心もある。


テキスト要旨

イエスは『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい』と言われた。これは金持ちにだけ語りかけられたのではない。イエスは『自分の金銭を―――』ではなく『自分の宝を―――』と言われた。『宝』とは金銭も含むがもっと重要なものを意味している。主が関心を寄せているのは財産に対する私たちの姿勢である。金銭で買える一切のものがあてはまるが、つきつめれば人生に対する姿勢全体の問題である。金銭の所有よりももっと大きな主題である。貧しい人々にもこの勧告は必要である。私たちは皆、何らかの宝を有している。夫、妻、子ども、住宅かもしれない。それがすべてとなっていたらそれが宝であり生きがいである。これこそが主が警告している危険である。

 

いつもよく耳にするみことばです。献金のおすすめの時にも盛んに使われるみことばです。お財布を開けさせる効果的な道具のように使われています。もちろんそれもいいでしょうが、ロイド氏はそうした限定された意味でイエス様は勧めているのではないと言われます。

 

この地上では何物をも愛着、執着すべきでないと教えているようにも思います。人間は弱いです。すぐに心を売ってしまいます。主の喜ばれないものに夢中になり、あるいは依存するのです。快楽だけではありません。

 

人の宝は単純に一目見てわかるようなものではなく、わかるような場所にも置いておきません。宝物は密かに隠しておくものです。こっそり眺めてはひとりでにんまりしたり、ごく親しい人にそっと見せるものであり、また、自慢する物です。持っているだけで快感であり、得意になれるもの、それが宝でしょう。

 

究極の宝は自分自身かもしれません。どれほど健康であるか、どれほど安定し安心して暮らしているか、そんなことに全精力を費やしています。明日、命が尽きるとも知らないで。知ってはいるのでしょうが、目先のことに縛られて身動きできないのです。

 

地上に蓄えるなとは、天に蓄えよと同義語です。地上の宝は天に通用しないでしょう。

宝の種類が違うのです。天に宝をつむためには、宝物の選別が必要です。選別する目が必要です。価値観の転換が求められます。全く違う生き方が必要です。ロイド氏の説くように人生に対する姿勢の問題です。主イエスを仰ぎ見つつーーーを思い出します。

 

『私たちの国籍は天にあります』

 

ロイド氏は説く その12

  • 2013.02.07 Thursday
  • 09:10
 

ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

試みに会わせないでください。


テキスト要旨

『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください』とは主の祈りの最後の願い事であり、決してサタンの誘惑を受けやすい状況には至らせないようにしてくださいという意味である。イエス様は最後に弟子たちに『誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈っていなさい』といわれた。それと同時に悪から救い出されるように祈ることである。これは大きな願いであり、包括的な祈願である。神と私たちとの交わりが絶たれないためである。

私たちの至高の願望は、神と途切れることのない親交にあずかることである。

 

サタンの罠を見分け、誘惑に勝つことなどとてもできるものではありません。だからこそ、ふだんの祈りが必要なのです。しまったと思ったときはすでに罠に陥って敗北した時です。試みが近づいてこないように、そんな目に会わないようにと絶えず祈らずにはおられません。主の御名によって祈るところにはサタンは必然的に近寄れないのです。それがサタンの唯一の弱さでしょう。サタンに勝つためには主の御名によって祈り続けることです。努めてそのようにしたいと思います。

 

また、自分の弱さを知ることが大切でしょう。長年クリスチャンでいると、どこかに変な自信が生まれ、傲慢になり、上からの目線で物事を見やすくなります。ところが、それこそがサタンの罠なのです。神様を押しのけたり、無視したりするつもりなど毛頭考えてはいないのですが、ひょっとしたことで自分が神様の先に出ることがあるのです。神様のお心をお尋ねすることを怠って、つまり、たいして祈りもしないで突っ走ると、必ず、サタンに負けてしまいます。ああ、そんなつまらない敗北をしたくありません。主の祈りは、一日に何度も、頭を垂れて、一言一句をかみしめながら捧げたいものです。

 

『誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈っていなさい』

ロイド氏は説く その11

  • 2013.01.28 Monday
  • 15:50
 

2013年になって初めて更新します。
新年早々からアルジェリアのテロで、我が同胞が多数、悲惨な事件に巻き込まれ、いやある意味で標的にされ、あたら命を奪われました。まさかと耳を疑うような出来事です。受け入れられないまさに悪夢としか言いようのない出来事です。でも、現実なのです。この現実の前で、私はなにをどのように考えて生きていったらいいのかと、呆然とする思いです。もう一度、真剣に聖書の神と深く密着して相対し、神様の真実を追い求めたいと思います。




ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

昨年10回にわたって掲載しましたが、今年も続けたいと思います。

 

私の目はいつも主に向かう(詩篇2515

テキスト要旨

ひとたびある問題を神のもとに持って行ったなら、そのことで気を揉むのはやめるべきである。問題には背を向けて、一心に神を見つめるべきである。しかし、あまりにしばしば……祈りから立ち上がった瞬間に、私たちは再びその問題の心配を始める。そのようなことをするくらいなら、初めから祈らない方がましである。神にゆだねるがいい。全く神により頼んでただ神を「待つ」こと。これが霊的平安の真の基礎である。あなたの見張り所のやぐらに立って、ひたすら神を仰ぎ見続けるがいい。他の何も眺めてはいけない。

とりわけ決して問題を眺めてはいけない。

 

ロイド氏は思い煩いの罪は罪の中で最大のものだと他の箇所でもよく強調しています。ほんとうに口が酸っぱくなるほど言い続けています。そうなのです。それなのにできないのです。思えば、自力ではどうすることもできないので神様に託したのに、また、手元に引き寄せてあれこれと悩むのは、神様に対して失礼なことなのです。

 

なぜ、そうしてしまうのでしょうか。一つには、問題が自分の思うように、自分の願いどおりに、自分に有利なようになってほしいという願望が強く、祈ったからと言って神様がはたして自分の願いどおりにしてくださるかどうか心配だからでしょう。どうにかして自分の思い通りにしたいのです。委ねるどころか、神様を自分の思い通りに動かしたいのです。言葉にするときつくなり、そんな大それたことは思っていませんと否定したいところですが、突き詰めると、そういうことになります。

 

委ねるってどういうことでしょうか。よく、お委ねします、おまかせしていますからといいますが、この言葉の奥にも取引が見えます。神さま、あなたを信頼してすべてをゆだねますから私の願いどおりに思いをかなえてください、なのです。

 

『あなた方の願いを神に聞いていただきなさい』とピりピ書でパウロは公言していますから、祈っていい、願っていい、祈り続けていい、じっと神を仰ぎ見て結果を待ち望んでいいのです。その間、ぐじゃぐじゃ思い煩わないこと、悪いことばかり考えたり、神を疑ったりしないことだと、ロイド氏はそう言っているのです。

 

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