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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2013.08.27 Tuesday - 16:35

みことばは教える その10 クリスチャンとは、関わり、分かち合う人のこと

 この夏は記録的な暑さだけでなく、ゲリラ豪雨など、特異な気象現象に脅かされた厳しい時になりました。
暑さにもかかわらず、このブログにたびたびお訪ねくださり、
深く感謝申し上げます。
春夏秋冬を問わず、聖書には新鮮ないのちの緑風が快く吹いています。
そのひとそよぎでもお届けできればと祈り願っています。

 

【新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(Daybreak John TSeamands)ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団

 

テサロニケ第機28

『あなたがたを思う心から、神の福音だけでなく、私たち自身のいのちまでも、喜んで与えたいと思ったのです』

 

テキスト要旨

クリスチャンの純粋なコミュニケーションには、福音を分かち合うだけでなく、自分自身を分かち合うことが含まれる。他の人と関わりを持つよりも福音を語っているだけの方が

はるかに簡単である。

 

神はご自分の愛を世に伝えたいと願われた時、本や人を通してメッセージを送ればよりとは考えないで、イエス・キリストという人となられた。主は地上におられたとき、教えや癒しの力だけでなく、自分の時間、エネルギー、さらにご自分までも与えられた。

私たちが神の愛を効率よく伝えたいと願うならば、その人のために時間を使い、その人の問題に関わり、それを通して私たちの愛を分かち合うことである。

 

クリスチャンの一人の女性が、隣のベッティーに証しをしようと何度も試みた。ベッティーは母子家庭で冷めた性格だった。あるときベッティーは病気になり二人の子どもの世話もできなくなった。クリスチャン女性は物惜しみせず、数日間、料理をしたり洗濯をしたりして子供たちの面倒を見た。たいへんだったが、ベッティーはその後、短い時間でキリストに導かれた。

 

人は説得や説教だけでは救われないとつくづく思います。キリストの愛を無言実行することの方がはるかに有効です。『私たちは言葉や口先だけでなく、行いと真実をもって愛し合おうではないか』との使徒ヨハネの声が聞こえてきます。福音が頭に入るのではなく、魂に入った時、死んでいた魂は目をさまし、生き始めるのでしょう。思えば私たちはイエス様の教えではなく、イエス様の十字架の愛によって救われたのです。自分のいのちを惜しみなく分け与えてくださったところに、真の愛を発見して心を開いたのです。イエス様を模範として、小さなことであっても、自分に死んで自分を与える者を目指したいと願い、願うだけでなくぜひ実行するべきでしょう。

 

  • 2013.08.20 Tuesday - 10:42

ことばは教える その9 福音は間引きせずそのまま語ること

 


新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(
Daybreak John TSeamands)ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団

 

コロサイ42

テサロニケ第機15

『私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信によったからです』

 

テキスト要旨

説教、子ども説教、個人的証しなどすべての福音伝達のあり方は、人間的な美辞麗句、雄弁、哲学など人間的思索によるものではない。福音はよい展望を与えるのではなくよい知らせをもたらすもの、アドバイスではなく栄光に満ちた宣言であり、神のあがないのみわざ、御子が十字架の上で代償の死を遂げ、よみがえったことが頂点である。

 

『力と聖霊と確信』、『救いを得させる神の力』、『両刃の剣より鋭い』神のことばを忠実に語る時、聖霊はともに働き、罪と義と裁きを罪びとに教え、悔い改めとキリストを信じるように導く。さらに人を回心させ、変貌させ、力を与えられる。パウロの語るように、クリスチャンは確信と自信をもって福音を語ることができる。福音は推論ではなく啓示である。真理であり、力に満ちたものであり、効果のあるものである。

 

どうして伝道がうまくいかないのだろう、あの人、この人の救いを願い、祈り、教会に誘い、チャンスをうかがっているにもかかわらず、何年経っても埒が明かない。時々教会に来ても、お義理のようだし、個人的に会っても福音の話を切りだすときがなかなか見つからない。あちらのペースで世間話を聞かされ、あまり反対できないので曖昧に頷いておわってしまう。後味の悪さ、むなしさはなかなか消えず、主の前にうなだれるのみーーー。

伝道の戦いはいつも敗北ばかりとは、わたしだけでしょうか。

 

パウロの伝道論に改めて耳を傾けます。心に染み入り納得します。パウロは心底みことばに信頼し、聖霊により頼み、与えられたみわざへの確信に立ったのでしょう。もうひとつ心に銘記しておかねばならないことは、伝道の成功とは何を指すのかです。自分の係わった人が、すっと信仰告白し、すっと洗礼を受け、順調に教会員

になりーーーー。そうしたことを短い時間の内にすべて自分の目で見届けることでしょうか。こうした図式を固く持っていたとしたら、思うようにはならないでしょう。

 

パウロの伝道論を深く心に刻みなおすとともに、あの人この人のために祈りを熱くし、心を砕いて交わりを深め、時がよくても悪くても福音を大胆に宣言できる者でありたいと祈ります。


  • 2013.08.11 Sunday - 22:06

みことばは教える その8 ひざを折って祈っていると、つまずくことはできない。

【新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(Daybreak John TSeamands)ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団

 


コロサイ
42

『目を覚まして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい』

 

テキスト要旨

祈りは年齢に関わりなく、霊的に幼子であるか成熟した聖徒であるかに関わりなく、信徒、教職を問わず、絶対に欠かすことはできない。クリスチャンの魂は祈りを必要としている。祈りをやめれば霊的に死に、祈り続ければ成長する。集まって祈るとき何かが起きる。

 

祈りには目を覚ましていることと感謝の心がなければならない。祈りが空虚にならないように、神様の善を思い起こし、感謝する時、祈ることが喜びとなる。とりなしの祈りは大切である。パウロは自分が牢獄から解放されるように祈ってほしいとは言わなかった。福音の拡大のため、新しい門戸が開かれて、効果的に福音を伝えることができるように祈ってほしいと頼んだ。世界中で働いているキリストの奉仕者のために日々祈らねばならない。

 

祈りを勧めるメッセージはいつ聞いても心に響きます。自分の祈りの生活の不十分さを知らされ、もっと、時間と心を注いで真剣に祈らねばならないと常々思っているからです。

祈りへの激しい願望があるのです。でも、なかなか実行できない。もちろん、これだけ祈れた、ああ、満足だとは、もしかして、自己満足である、独りよがりかもしれません。

 

祈りは単なる願望のはけ口ではないと肝に銘じなければならないと思います。もちろん、日々の生活の中で、押し寄せてくる問題に煩悶する時、解決を主に求めることはキリスト者としては自然のプロセスです。世の中のだれに、どこに、助けを求めましょう。そんな愚かなことはしません。ひたすらに主に祈ります。しかし、そこにはどうしたって、苦しい時の神頼み式思考が働いてしまいます。祈りは、問題解決の手段としてだけ用いるのではないのです。パウロの言うように『目を覚まして、感謝をもってたゆみなく』祈ることが、御心にかなう祈りなのです。感謝をもって祈ることがどんなに大切で必要なことかと思い知ります。

 

ピりピ書にも『感謝をもって捧げる願いごと』とあります。神様の前に、ぐたぐたと愚痴をならべ、べそをかいてないものねだりするだだっ子の祈りは、いいかげんに卒業しなければと思います。目を覚まして、我のことは脇に置いて、聖徒の入用のためとりなしの祈りをささげられる成熟したキリスト者になりたいと、切に願います。

 

 

  • 2013.08.03 Saturday - 22:08

みことばは教える その7 キリストは私たちの内側から輝きだしてくださる。

新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(Daybreak John TSeamands)ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団

 

コロサイ127節 

『あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです』

 

テキスト要旨

クリスチャン信仰には二つの神秘がある。一つは神様がイエス・キリストという人格によって私たちと≪共に≫生きてくださること、もう一つは私たちの≪内に≫住んでくださることである。これは人間にはとうてい理解できないことであるが、主は私たちの内側に入り、あるべき姿に造りかえてくださる。外科医がメスをもっても入り込めないところ、精神科医が触れることのできないところにキリストは住み、働き、思いと感情をコントロールし、願望と動機を清め、意志と野心を正しく保ってくださる。クリスチャンになるとはまさにそのことである。キリストを自分の中心に受け入れ、清め、コントロールし、力を与えてくださるように願えばよいのである。

 

神、我らとともにいます、つまりインマヌエルの主のことは、メシヤ予言から始まるクリスマスメッセージとともにクリスチャンにはなじみ深い信仰です。主が今日も私とともにしてくださることを感謝します。主があなたのそばにいてくださるから、心配しないで、などなどと、日常の会話にも祈りにも当たり前のように用います。そこから大きな喜びや安心や励ましを受けます。インマヌエルの主を信じる時、危険の中も不安の中も苦悩の中も歩いていけます。このことは大きな恵みの一つです。

 

もう一つの信仰である≪内にいます主≫は≪内住の主≫とも言いますが、ともにいます主以上に親しくまた厳かな、それでいてうれしい思いにしてくれます。主が、イエス様が、私の外側だけでなく、内側にもおられ、住んでいてくださるのを知る時、踊り上がりたいような感情の高まりさえ覚えます。主が私の内で、私の罪や弱さを越えて力強く働いてくださり、ご自身を輝かしてくださり、栄光を表してくださるのです。主が私を完全に支配して、充分に本領を発揮できるようにと祈らずにはおられません。私が弱くなればなるほど主が強くなるのです。私が完全に死ねば、主が私の内で完全に生きることになるのです。

私は外側からも内側からもキリストに取り囲まれているのです。完全防備です。これ以上の強さはありません。キリスト者はなんと幸いでしょう。

 

『我キリストとともに十字架につけられたり。

もはや我生くるにあらず。キリスト我がうちにありて生くるなり』

 


  • 2013.07.12 Friday - 11:12

みことばは教える パート2 その6 行いによってキリストを飾っているか、汚しているか

 

 


【新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(
Daybreak John TSeamands)ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団

 

ピりピ人への手紙2111

 

テキスト要旨

一人の伝道者が路傍伝道していた。ところが近所の十代の若者たちが口汚く罵った。彼は逆上して車で追いかけようとしたが、バス停のところにいた3人の子どもを轢いてしまった。4歳の子ども二人が死亡、もう一人は18歳で重傷を負った。これはあまりにも極端な話であるが、私たちもクリスチャンとして自分の語る福音に生きていないことがある。忍耐できずに怒る、悪口を言う、自己中心、地位や権力を得るために世俗的な方法を用いるなど。私たちの行動が基準以下になったら、証しは効力がないばかりか、福音に泥を塗ることになる。もう一つの話がある。一人の兵士がベッドのそばでひざまずいて祈っていた。ところが同僚の兵士が嘲笑って泥まみれのブーツを投げつけた。翌朝のこと、泥を落としきれいに磨かれたブーツが、その無礼な兵士の枕元に置いてあった。彼がキリスト者になるのに大した時間はかからなかったそうだ。

 

この対照的な二つの実例にはどちらにも唸り声が出ます。激怒して福音に泥を塗った路傍伝道者には、あきれるほかはありませんし、黙々と狼藉者のブーツを磨く兵士には拍手したくなります。しかし、どちらも自分とあまり関係のないお話しとして聞き流してしまいがちです。ところで、私はひとたび『福音にふさわしく生活しなさい』の鏡の前に全身を写せば、とても悠然としはいられません。私には極端な醜談や美談まではいきませんが、こそこそと恥ずべき行動があり、誇れるほどの事柄など無きに等しい惨めな自分を見るだけです。福音の真理を知る私と、福音に生きる私との間には大きな乖離があり、越えがたい淵があります。いわば二重人格といえるほどです。この落差を縮めることこそ、生涯を賭けた一大事業であり、日々の急務であると思います


  • 2013.06.27 Thursday - 18:33

みことばは教える パート2 その5 愛は生涯を通して完全になっていくもの。

 


【新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(
Daybreak John TSeamands)ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団

 

第一コリント1347節 【愛の章から】前回の続きです。

 

テキスト要旨

≪自分の利益を求めず≫ 愛は賞賛と名誉と利益を求めない。自分の利益に固執せず、他の人の権利を擁護することを喜びとする。究極の喜びは与えることによって得る喜びである。けしって自己満足せず、他の人に要求しない。

≪怒らず≫愛は温厚であり怒らない。人を怒らせない。短気でなく激昂しない。感情を爆発させたり不機嫌にならない。

≪人のした悪を思わず≫受けた悪をいつまでも考え続けない。赦すだけでなく忘れる。

≪不正を喜ばずに真理を喜びます≫愛は他人の罪や過ちをほくそ笑むように眺めない。他人の良くない話を聞くことを喜ばない。真理が明らかにされることを喜ぶ。

パウロの愛の賛辞は積極的で確信に満ちたクライマックスに向かう。

≪すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます≫

これらの愛の部分にキリストと入れると、違和感なくマッチする。ところがそこへ自分の名を入れるとどれも基準に達しない。キリストと私はーーーとしたら希望があるだろうか。

 

前回と合わせてパウロは本当の愛を15の具体的な事柄で表しました。しかし15のうちのどれかひとつでも、胸を張って、それはできます、それは私の内にありますと言えるものがあるでしょうか。ない自分を恥じつつですが、これらのほんとうの愛に強いあこがれと同時にそうした愛の所有者になりたいという欲求だけはあります。また、事が起こるたびに思い出しては、はみ出し、飛び出し、暴走しがちな自己を抑えとどめる役目をしてもらっています。何度も何度も口ずさみ、思い巡らし、胸をなでおろすうちに、やがて祈りへと導かれます。自分を写す鏡として、成長のテキストとして、身近に置きたいものです。

 


  • 2013.06.21 Friday - 12:05

みことばは教える パート2 その4  愛の定義は難しいが、あるかどうか区別は簡単

新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(Daybreak John TSeamands)ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団

第一コリント1347節 【愛の章から】  

テキスト要旨

パウロは愛を描写する。愛は定義したり分析もしない。どのように行動に表れ、人の生き方と生涯を変貌させるかを15を具体的に描いている。愛は七の七十倍まで赦す。

≪愛は寛容であり≫ どのような状況にあっても寛容であること、そんがいも甘んじて受け止める。苦い思いや怒りをいつまでもしまっておかない。

≪愛は親切です≫寛容とは自分の表現を控えることに関係があり、親切は自分を表現することと関係がある。愛は他の人に積極的によいことをすること。

≪人をねたみません≫人の賜物や持ち物や立場をうらやまない。人の成功に嫉妬しない。

≪愛は自慢せず、高慢になりません≫有頂天になったり虚栄や見せびらかし、気取り、ひけらかし、威張りをしない。

≪礼儀に反することをせず≫人を傷つけない、苦しめたり困らせたりしない。なににでもしゃしゃり出て職権を振り回すようなことをしない。他の人に配慮する。(6個)

 

聖書の中で、およそこの箇所ほど自己の現実と遠く感じられるところはないでしょう。パウロは、ほんとうの愛を15個も普段ばきの平易な的確な言葉で表しました。具体的であるだけにまともに直できません。後ずさりするか、背を向けて遠くに離れたいほどです。それほどに15の鏡はありありと被写体の実相を浮き彫りにします。

寛容ですって、そんなものありません。親切ですって、ああ、私は冷たいです。ねたみは、心の奥底に確かに潜んでいます。自慢、高慢ですって。きっと知らず知らずのうちに自慢し、高慢になっているのです。クリスチャンだというこの身分さえ、自慢の種にし、高慢な思いになっています。礼儀に反することをせず、ですか。私は不作法ものです。

悔い改めの祈りしか出てきません。しかし、せめてパウロのかざす15の鏡の前に、勇気を出して立ちたいと思います。映し出されるお粗末な自分を知って、できることから一つでも二つでも挑戦したいと思います。

 

 

  

 

 


  • 2013.06.15 Saturday - 22:00

みことばは教える パート2 その3 神様はすべてを知っておられる唯一のお方

 

【新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(Daybreak John TSeamands)ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団

 

第一コリント415

『私をさばく方は主です』4

 

テキスト要旨

人は三種類の判断を受けている。第一に他人の判断、第二に自分の判断、第三に神様の判断。他人の判断は多くの場合正確であるが時に的外れなこともある。外見で結論を下してしまうから。こんな話がある。ある人が航海をしていた。同室の客の外見が気になり、その理由を告げて貴重品をパーサーに預けた。パーサーは彼から貴重品を受け取りながら、

その同室者も同じように心配だからといって貴重品を預けに来たと告げた。笑い話のようだが、人は外見を判断の基準にするものだ。自分の判断は自分には甘く、自分の欠点や失敗に盲目である。神様は究極の本当の裁判官である。神様は私たちの隠れた秘密をすべて知っておられる。動機も完全に知っておられる。行動の背後にある意図もご覧になっている。人間の心を完全に知っておられる唯一の方は神様である。人の判断も大切だが、神様の判断に最大の関心を払わねばならない。

 

神様だけがすべてを御存知ですとは、クリスチャンがよく言うセリフです。そこに平安を得ようとしてよく使います。自分の分が悪い時も、不安でいっぱいの時も、隠れ蓑や開き直りの道具のように言います。そこには多少の真理はあります。しかし、人は人の評価、判断がひどく気になるものです。神様はわかっておられると最終的は信じていても、人からの判断にこだわってしまいます。神様の前よりもむしろ、人の前でいい恰好したいのです。この滑稽で哀れな性向から完全に自由になるにはどうしたらいいのでしょうか。

ひとことでまとめれば、私をご覧になる神様の視線を常に第一に意識することではないでしょうか。その視線とは、私を丸ごと愛しゆるし受け入れる神様の愛です。この愛の視線のもとで、身を低くして全幅の信頼を持って主を見上げることではないでしょうか。


  • 2013.06.08 Saturday - 22:28

みことばは教える パート2 その2 セリで神様より高値を付けられるものはない

 

 



新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(
Daybreak John TSeamands)ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団

 

第一コリント15

『すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです』

 

テキスト要旨

クリスチャンは貧しくなるのではなく豊かな者になるのである。

第一に『恵みに豊かである』

恵みは罪に対して、あらゆる危険に対して、恵みは十分である。

第二に『信仰において豊かである』

神様はこの世の貧しい者を選んで信仰に富む者とされた。

第三に『源において豊かである』

キリストにある栄光の富をもってすべての必要を満たしてくださるから、私たちは物質的、霊的、感情的にすべての祝福を引き出すことができる。

第四に『希望において豊かである』

私たちの内におられるキリストこそ栄光の望みである。

 

イエス・キリストに救われて、神の子としての身分をいただき、永遠の命まで約束されているのに、なぜ、私たちは自分を貧弱で、貧相で、貧乏で、無力だと思い、悲観し、卑下し希望を失くしてしまうのでしょう。実質を越えた見栄や空威張りは論外ですが、実質以下に見積もるのは大きな問題です。しかしどうしてそうなってしまうのでしょうか。

 

ひとつには、豊かさに対する考え方がときどき間違ってしまうからでしょう。仮にもクリスチャンですから、この世の価値観ですべてを計ろうとはしないはずですが、この世に生きている限り、この世の説く豊かさに惹かれ染まることも多々あります。この世の価値観というカラーのついた眼鏡をかけてしまうのです。

 

もう一つは、恵みの源であるイエス様から目をそらしてしまうからでしょう。一心にイエス様を見つめていれば、イエス様から流れあふれる恵みで満たされるはずです。大きな浴槽に全身を浸しているようにどこもかしこも恵みでずぶ濡れになるはずです。この世に対して、胸を張り明るい笑顔を向け、みんながへこたれてもエネルギッシュに物事に取り組み、クリスチャンとしての存在を証しできるのではないでしょうか。私にとっての十分な恵みを主はくださっているのです。主から問われていることはどこまで信ずるか、でしょうか。

 

  • 2013.06.03 Monday - 19:50

みことばは教える パート2 その1 奉仕は100m競争ではなく、リレーである。

 このブログによくお訪ねくださる皆様へ

しばらく更新ができず申し訳ありませんでした。然し中止ではありません。これからもできるだけ、励みます。ご愛顧ください。





今回から【みことばは教える】のパート2を掲載します。
2011年秋に10回連続しました。初回の冒頭に、【みことばは教える】とした理由を述べましたが、パート2を進めるに当たり、引用して確認したいと思います。

 

これは《みことばに聴く》というより、すでに、みことばの方から立ち上がって近づき、真理を語っている、そんな状況を表わしました。私が能動的にみことばに近づき、耳を傾ける前に、すでにみことばが動き出し、私に近づき、語りかけ、教えてくださるので、主体はみことばです。そんな霊的体験をお持ちでしょう。思いますに『ことばは神であった』のです。ですから、みことばが教えるのは当然なのです。

 

取り上げるみことばは、【新しい朝に 使徒たちの信仰と祈り】(Daybreak John TSeaman。ジョン・T・シーモンズ著 河村従彦訳 インマヌエル綜合伝道団)からです。

 

ローマ人への手紙161727

『私の同労者テモテが、あなたがたによろしくと言っています』21

 

テキスト要旨

パウロはここで28名の名をあげて挨拶を送り、いっしょに挨拶を送りたい8名の名をあげている。リストの人たちはパウロの友人、支持者、同労者である。女性が8名いる。

キリスト教界にはすばらしい伝道者、宣教師、リーダーが何人もいるが、ほどんど一人で奉仕している。チームで奉仕することも、他の人を訓練し後継者を育てようとしない。パウロはチームの人であった。使徒の働きからは、バルナバ、シラス、ルカ、ヨハネ・マルコ、テモテ、アポロとチームを作っていたことがわかる。書簡からは、テキコ、アリスタルコ、テトス、ユスト、エパフラス、デマス、エラストをあげている。彼らの奉仕と協力に何度も感謝している。

 

パウロは今の私たちに大切な模範を残してくれた。牧師であれ、伝道者であれ、信徒であれ、キリストを証しする者は一人で仕事をしようとしてはいけない。一人で宣教大命令を成し遂げることはできない。互いに協力し、祈り、それぞれが他の人の奉仕を助けるために賜物を用い、自分の後に奉仕する人を訓練するチームを作らねばならない。

神様は、私たちを神様のパートナーとなるために召された。それはまた他の人のパートナーとなるためでもある。

 

キリスト教界だけでなく、どこの世界もそうかもしれませんが、自分だけがトップになりたがり、ずっとトップに留まり続けたがり、近くにいる有能な二番手を排除したがります。確かにその人は超有能で、主のためなら命をも惜しまないほどの情熱を持っています。しかし一匹狼のように思えます。ですから、せっかく始めたよい働きが、年月とともに翳っていきます。人を寄せ付けないからです。これはいったいどういうことでしょうか。さびしい限りですし、いやけを感じます。

 

力のある人は、人を立てても、一歩下がっても、決して彼自身の名声は消えも減りもしません。人を立てたら、自分の立場が奪われると思うのでしょうか。気の小さいこと!

もちろん、仲間のすべてが自分の思うように働いてくれる保証はありません。人と関係を作れば必ず摩擦が起こります。ストレスもあります。むしろ、自分一人の方が働きやすいと思うことだってあります。裏切られることさえあります。イエス様もそうでした。

 

しかし敢えて、仲間づくりをし、ともに意見を交わし合い、何よりも祈りあって、主の働きを進めるのが大切だと思います。チームを作り、同労者と呼ぶ関係を築いたパウロの苦労は並大抵ではなかったでしょうが、彼は敢えてそうしたのでしょう。だからこそ、パウロを慕って近づく人もいたのでしょう。ともに奉仕するチーム作りを優先したいと強く教えられました。

 

 

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