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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2010.06.18 Friday - 10:38

細川ガラシャ その生と死 その10(おわり)

 

 

ついでながら、父光秀が信長に謀反を起こす前夜の句に

 
          時は今 天が下知る 五月かな 


と、読んだことが残っています。

 
光秀も自分の人生の時、決断の時は今だと、時について思いを深めています。光秀の場合、おそらく自分を生かすときは今しかないと、もちろん死を覚悟の上でしょうが、自分を生かすため、自分の思いを遂げるための時を悟ったのでした。

 

その娘であるガラシャが「散りぬべき時」と歌っているのです。父と娘が、次元は違っても時を知ることに共通項をもっていたことに興味をそそられます。そこからでてくる答えは父も子も生きることに死ぬことに人一倍真剣であった。たった一度の人生を、光秀は自分自身の心に、信念に忠実であった、ごまかしたり妥協したり、あきらめたりしなかったことがわかりますし、ガラシャは信仰者として神の栄光のために、恵みとして生きること、死ぬことを考えることができた、なによりも永遠のいのちを喜び、生き生きと死んでいったこころがこの親子のちがうところでしょうか。

 

 ところで、少し脇道にそれますが、ガラシャの夫忠興、忠興にとどまらず、細川家はこの世に生き続けることに最大の関心を払い、そのためには人を裏切ることも、さらに自分自身の心をいつわることもいといません。忠興はついに自分で自分の妻を殺すと同じことをするのです。いざというときは家のため、強いては自分のためには最愛の妻さえ見殺しにするのです。恨むことはしなかったでしょうがガラシャの淋しさ、悲しさはたとえようもなかったでしょう。

 

だからこそガラシャは「散りぬべき・・・・・人も人なれ」との歌を詠み、それをいわば夫の胸元に突きつけたのです。ガラシャの投げつけた一句はどのように忠興の心に響いたでしょう。散りぬべき時を知らなければ人間ではないと言っているのですから、あなたは人間ではないと言われているのですから。しかし、たとえわかっていても、この弱き男はガラシャの強さに準ずることなどおよそできなかったでしょう。妻を後にして出陣するしかできなかったでしょう。

 

 さて、おわりに近づきたいと思います。

 今まで長きにわたってガラシャの生涯とその生き死を見て参りました。ガラシャは今から400年も前の特殊な時代の特殊な環境に置かれた人でした。確かに特別な人でした。しかし他人の人生を見て特別の人で終わらせてしまわないところが賢い女性の態度といえましょう。

 

ガラシャは、いわゆる不幸な出来事に遭遇したとき、その苦悩から安易に逃げなかった、環境や人のせいにしたり、仕方がないというレベルの納得やあきらめでかたづけず、とことん掘り下げて苦しみ抜き、そこから苦しみや不条理の本質を見抜くことができた、さらにはその思いや視点を、見えない世界に存在する不変の真理に向かわせることが出来た、そしてついに神を発見し、神を信じ、魂の平安を獲得することが出来たのでした。ガラシャは生き上手であった。生き方の達人であったと評価できると思います。ガラシャは状況や環境が悪くなればなるほど、その精神は生き生きと高められ、質の高い濃度の濃い生を生きることが出来た人でした。それは生の延長にある死についても同じことが言えます。

 

ガラシャは積極的に死を選んだ人です。しかしそれは決して自殺ではありません。逃避の死ではありません。自分の全存在を賭けて死んでいきました。世の中に対しての精一杯のレジスタンスと、愛する神への力一杯の信仰を両立させた死でした。 

 三浦綾子が死を間近にして『私にはまだ死ぬという大切な仕事がある』と言ったことは記憶に新しいしかも近年の高齢化時代に一石を投じたすばらしい一言として私たちの心にひとつの新鮮な感動を与え、死に対する考え方に新しい領域を見せてくれましたが、ガラシャの死もまた彼女にとっては最後の大きな仕事、言い換えれば使命であった、ガラシャはそこに自分の使命を見た、神様のための使命を確信したと思われます。死ぬことにも神の時があり、神様の恵みであり、さらに死後の世界の恵み、永遠のいのちの恩寵を多くの人々に伝えなければならないという使命に立ったのでした。彼女は死に上手、死の達人であったと評価できるでしょう。濃密な生と死を達成させた人生の勝利者と言えます。 

 

最後の最後に、皆様方の今の生きることとやがて来る死が、ガラシャのように中身の濃い純化されたもととなり、いつでも本当に生きている、生かされているという充実感と神様への感謝があふれるものでありますようにと祈ります。(おわり)

 

                                                                 

 


  • 2010.06.13 Sunday - 15:15

細川ガラシャ その生と死 その9

 

さて、最後の箇所、ガラシャの死に方を見ていきます。

 秀吉はキリシタンに敏感に反応します。はじめは大目に見ていましたがやがて禁止令が出され、国内の宣教師たちに国外退去を命じたり、また長崎では26名のキリシタンたちを処刑します。忠興は妻がキリシタンであることを悟られまいとしていよいよ厳重に外出を禁じます。妻とお家を何とかして守ろうとする当主としてはもっともな態度だといえます。彼は彼なりに生き延びるために必死で方策を探ります。

 

時が移って秀吉が死に、世の中は再び天下取りを巡って騒然としてきました。先にも述べましたように、世間にさとい細川家は生き延びるために秀吉から家康側につく選択をします。

 天下分け目の戦いにつながるだろうと誰もが予感している頃。忠興は家康の命を受けて会津へ向かおうとしています。今さらどこかに逃すことはできない。石田方がガラシャを人質に出せと命じてくることは時間の問題。家康さえ大阪城に側室を残している。しかし忠興はどうしても出したくないのです。と言うことは万一の時は死んでくれと言うことです。人質となってとなって生き延びても辱めを受け、棄教を迫られ、命も取られることは明白です。

 

それなら潔く信仰を守り通し、夫に従って家のために死のうと、ガラシャは決心します。 信仰と夫の両方を立てる道は死しかないと判断するのです。その背後には強烈な信仰がありました。ガラシャは忠興にきっぱりと言います。「デウスを信ずるものには肉体の死はありましても、霊魂の死はありませぬ」永遠のいのちを信じる信仰にたっての決断です。

 

永井路子はガラシャにこう告白させていまいす。

「御恩寵の日が来たと、わたしは今思っております」「キリシタンの御禁制は日を追って厳しくなるとも和らげることはありますまい。私がキリシタンであることは細川家のために大きな障りとなることは明らかです」

「かといって、私にはキリシタンの御教えをいまさら棄てることはできませぬ」「神は私に御恩寵をお与えになりました。他の方々にとっては生涯の危機である今も、私にとっては神のお恵みでしかありませぬ。私がガラシャという名をいただいた意味が今はっきりと分かった気がいたします」

「おそらく忠興殿は私の気持ちはご存じないでしょう。ただ細川家に殉じたとお思いになって涙を流してくださるかも知れませぬ。それでもよろしいのかも知れませぬ。それも神の与えられた御恩寵でありましょう」

 

永井路子の場合、ガラシャの死は恩寵によって与えられた恵みだと理由付けをしています。三浦綾子はガラシャが「肉体の死はあっても、霊魂の死はない」と言い切る姿に、ガラシャが永遠のいのちを信じ、そこに希望のすべてを託して敢然として死んでいく様を強調ており、そのことこそが恩寵なのだとキリスト教の福音を明確に示しています。ここがキリスト教作家とそうでない作家の相違ではないかと思われます。 

 

ガラシャの死の決意をもう少し見ていきます。      

 ガラシャは思います。このあと何年生きたとしても、結局、肉体は死ななければならない。(死ぬべき時に、人は死すもの)そう結論するのです。

 

辞世の歌は世によく知られいるとおりですが 

    

      散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 

                      花も花なれ 人も人なれ
  

 

 ここには読み捨てにできないひとつのことば「時」がでてきます。

 時を知るの「時」とは聖書『伝道者の書』にある神の時のことでしょう。 伝道者の書の一節には『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある』とあります。またパウロの声も聞こえてきます。『私にとって生きるはキリスト、死ぬこともまた益です』

 ガラシャは自分の死ぬ時を神の導きの中で悟り、恩寵、すなわち恵みである、そして死の先には究極的な恵みである永遠のいのち、天において神と共に生きる新しい世界があるのだと確信しています。これが死を選び、死を決意した理由です。信仰に、神の約束に賭け、福音に生きたのです。 (つづく)

 

 

 

  • 2010.06.06 Sunday - 08:11

細川ガラシャ その生と死 その8

 

 さて、長い長い苦悩の果てに、自分の心の中心に据えるものが神であることがわかったとき、ガラシャは非常に積極的になります。まっしぐらに突進するほどです。どうしても納得のいくまで探し、訪ね、そして見いだしたいという激しい欲求が働きます。その情熱の前には夫の外出禁止の厳しい命令も意に介しません。どうしても教会へ行ってみたいと思い立ち、様々に策を練って計画を立て、ついに屋敷を抜け出します。

 

忠興は異常なまでにガラシャを束縛し屋敷から一歩も出そうとしません。自分が留守の間も家臣たちに厳重に申し渡していきます。その厳重な命令と監視には妻であるガラシャにもどうすることもできない状況です。しかしある時、その監視をくぐってガラシャは教会へ行くのです。彼女の生涯にとってたった一度のことでした。その時ガラシャはパアデレ、神父、つまり牧師に直接会って信仰の導きを受けます。その後は清原マリヤを通して何度も教えを受けます。その様子は滞在中の宣教師の書簡として今に残っているそうです。

 

その後ガラシャは清原マリヤから教会ではなく自分の城の中で、洗礼を受けます。洗礼名をガラシャと名乗ります。キリシタンになったことを夫にも隠さず告白します。夫の驚きや怒りにも動じません。どのように迫害されてもその信仰はますます強固になり、侍女たちもつぎつぎに信者となっていきます。これには忠興も手がつけられなかったようです。 

 以上を総合して一つのことが見えてきます。ガラシャはいのちの危機にさらされる時、また心に深い傷を負い、絶望したとき、かえって精神活動は活発化し魂の目が開かれ、究極の真理を求めて生きようとしています。 

 

 皆様、私たち人間が、生きると言うことは一体どういうことでしょうか。長い人生街道を歩き、様々な体験をなさってこられた皆様方、ご自分の来し方をふり返って見て、生きるとはどういうことか、お答えを見いだすことが出来るでしょうか。

 

真に生きるとはどういうことでしょうか。キリスト者であろうとなかろうと、人間誰しも心の底ではほんとうの意味で生きたと言えるように生きたい、ほんとうの生を生きてみたい、また、生きたといい切れるような人生を送りたいと切に思い、願い、求めているのではないでしょうか。

 

それは外側の条件、たとえば健康であるとか、豊かな暮らしであるとか、良い家族や良い友人たちに恵まれるとか、そうしたいわゆるこの世が評価する幸福の物差しでは測ることの出来ないものではないでしょうか。言ってみれば見えない世界に属することではないでしょうか。聖書には見えるものは一時的であり見えないものは永遠ですと書いてあります。人間は物理的には動物の一種に過ぎませんが、同時に人間は精神的な生き物であるとは古来からの定説です。だから動物的な生き方だけではどうしても満足することの出来ない世界、心の領域、魂の領域での判断、評価が重要なのです。

 

人間が真に生きるとはどういうことでしょうか。

 私自身、自問自答する課題です。簡単な数式の計算で答えを出せるような問題ではないでしょう。もしかしたら永遠の課題かも知れません。そしてそれは人間の創造主なる神様が、さあ、しっかり考えてごらんと提出された難問かも知れません。でも案外簡単なところ解答があるのかも知れません。(つづく)

 

 

  • 2010.05.24 Monday - 10:55

細川ガラシャ その生と死 その7

 

わずか二十歳の、しかも一国一城の武将の奥方であるガラシャがそんな環境で二年あまりも置き去りにされたとはなんとむごいことだろう、おそらく生きたまま地獄にいるような気がしたのではなかったかと、ガラシャの心情が切々と伝わってくるような気がしました。味土野への旅は私にとってはかなりの冒険でしたが、行ってほんとうに良かったとつくづく思いました。

 

ガラシャはそんなところに、いわば捨てられたも同様なのに、ひたすらに夫の愛を信じ夫からの便りを待ちこがれるのです。しかしいくら待っても家来一人訪れません。ガラシャの心はしだいに揺れていきます。しだいに待つことにむなしさを覚え、それが夫への不信となり、憤りとなり、深い悲しみとなっていきます。

 

味土野には供のものはわずか数人でしたが、その中にキリシタンの清原マリヤがおりました。マリヤはどこまでもガラシャに付き従い、仕えていきます。そのマリヤが味土野でのガラシャの精神生活に多大な影響を与えます。マリヤはガラシャの苦しみをじっと温かく見守り、一人祈り続けながら、折に触れ時に触れて神のことを話題にします。こうした会話がガラシャの心にすこしづつしみ込んでいきます。

 

ガラシャの心はすぐには開かれず神を信じ受け入れるには到りません。しかし山中での二年におよぶ孤独な生活は確かにガラシャの心をこの世から引き離すのに大きな影響を与えました。それはガラシャがまことに神様を信じるに到るためにはなくてならない道筋でした。信仰を持つと言うことは飽食暖衣の中からはなかなか生まれません。環境の厳しさが心や魂をハングリーにします。この飢え渇きそこが人を神様に近づける重要な近道の一つなのです。時代が変わってもそれは変わらない真理ではないでしょうか。

 

さていよいよ秀吉のゆるしが出てガラシャが味土野を後にする日がやってきました。その喜びはたとえようもなく、ともに苦労した者たちと手を取り合って喜ぶのです。が、ガラシャの喜びはじきに去ってしまいます。ガラシャは心の底から喜べないのです。味土野で一度人生の地獄を見てしまったのです。大阪の玉造に作られたという新居で、夢にまで見た夫や子供たちと以前のように生活できる、手放しで喜ぶことが出来ません。その幸せがいつまで続くのかそれを信じ切ることが出来ません。いつまた苦難が訪れるかもしれない、それを考えると不安やおそれが先に立ち、心底から今の幸せを喜ぶことは出来ないのです。

 

真の幸福とはこんなに崩れやすいものではないはずだ、不安や恐れに脅かされることのない不動のものがあるにちがいない、その変わらざるものを、真理を、ぜひ得たいと思うようになります。

キリシタン佳代は神を信ずることこそ真の幸せであることをこんこんと解き明かします。その時初めてガラシャは自分から神を信じてみようという思いにたどり着きます。ようやく魂の扉が開かれたのです。   

 

大阪の新屋敷に入ったガラシャは夫や子供たちと再会し以前にも勝る豊かな生活が始まります。それもつかの間、夫忠興に側室がいたことを知ります。これはガラシャの心をまたまた新しい悩み苦しみに突き落とすことになりました。自分があの山中で死ぬ思いで夫を待ちこがれ、苦しみ抜いていたその間に夫は側室を置き、しかもまもなく子供まで生まれるというのです。ガラシャは自分の愛と夫の愛との間には越えられない隔たりが出来てしまったと愕然とするのです。さらにはこの隔たり、距離は今急に出来たのではなく、最初からあったのだ、自分がそれに気づいていなかっただけかも知れないと思います。それはいい知れない淋しさでした。味土野の淋しさとは異質の淋しさであり誰にも慰めを求めることのできないものでした。

 

淋しさやはてしない孤独感とは、別の言葉で言い換えれば、自分は愛されていないのだ、一人の人間として受け入れられ、理解されていないのだ、拒絶、否定されているのだなどの事実を突きつけられた時の、心の闇から来る現象でしょう。

 ガラシャはその持って行き場のない深い深い、悲しみ、淋しさ、むなしさのはてについに、神にたどり着くのです。

 

神の話を聞きたい。どうしたら神に救われのかと真剣に考え、自分から佳代に問いかけるようになります。佳代はここぞとばかりに説き聞かせるキリスト教の神髄、『何かをすれば救われるというのではなく、ただキリスト様を救い主と信ずれば、それだけで十分」と説いていきます。



 永井路子の『朱の十字架』を見ますと、
(文庫206ページ)

*お玉はしだいにキリシタンへ心を傾けていった。これをただちにキリスト教と仏教の本質的な優劣と見たり、お玉の仏教理解の浅さのせいだとしたりすることは、見当はずれである。ここで目を留めるべきは、お玉のような性格で、お玉のような環境におかれた女性が、十六世紀の後半、わずかな間だけ日本に伝えられた西欧の宗教にふれたとき、それに捉えられずにはおられなかったという事実である。

 ザビエルの一行が日本の地を踏んでから、このときまで、まだ半世紀とは経っていない。そして、それからまもなくキリスト教は厳しい弾圧を受け、宣教師たちの渡航は途絶えてしまう。いわばお玉の生きたのは、厚い雲の間から、つかの間「西欧」と言う日の差した希有な時間であった。これがお玉という、当時の女性としては珍しく何者にも曇らされない眼と、鋭い感覚と、本格的につきつめていく思考力を持った希有な女性とがむすびついたことに、歴史のふしぎさはあるといっていいもいいのだろう。*

 


 永井路子はガラシャがキリシタンになったのは歴史のふしぎであると解釈しています。ここがキリスト者の眼と全く違うところです。三浦綾子ならこのような特殊な歴史の中に置かれることに神様のご計画、みこころを確認し、それこそが恵み、すなわち恩寵だと言い切るでしょう。歴史のふしぎと一言でかたづけてしまうところがキリスト者としては何とも物足りません。(つづく)

 

 


  • 2010.05.17 Monday - 08:11

細川ガラシャ その生と死 その6

 

細川ガラシャ その生と死 その6

 

今回、ガラシャを取り上げるにつき、ふたたび味土野へ行きたいという思いが再燃しました。地図で何度も何度も確認しました。味土野は現在の地図上にもはっきりとその名が記されています。京都府に属しています。でもいわゆる京都ではなく若狭湾の西側を作り、日本海に突き出ている丹後半島のほぼ中央の山中にその地名があるのです。

しかし、交通機関となると鉄道はおろかバスさえ通いません。マイカーかタクシーで行く他はありません。そして京都までは新幹線で三時間ほどで行けるのですが、その後山陰本線で福知山と言うところを通り、さらに近畿タンゴ鉄道で宮津、天橋立を通って峰山という駅からタクシーに乗ることになるのです。

 

とても一日の旅では無理なので、まずガラシャの嫁いだ細川のお城があった宮津という小さな町に宿泊することにしました。そして翌朝、峰山駅まで宮津から40分電車に乗り、予約して置いたタクシーに乗って山中に入りました。40分、だんだん細くなる山道を進みました。道は舗装はしてあるものの、しだいに細くなり車一台やっと通れるような山道をたどりました。恐いようです。運転手さんが初老の方で良かったのですが、いまでも半年に一人ぐらいしか訪れる人はないそうです。でもその町では町おこしにガラシャを使おうとしたようで、道路の所々に<ガラシャ隠棲の地>という標識が立っていました。

 

ようやく到着したところは建物一つあるわけではなく、跡地という目印の立て札が立っているだけ。また観光用に作ったのでしょう、とってつけたようにお墓が立っていました。そして道はもそこで行き止まりになっていましてそれ以上続く道はないのでした。ガラシャのためにかろうじて道を残し多あるいは作ったと思われます。まわりに集落もなく、向かいの山間に二軒ほどおそらく山に関係のある仕事をするような家がありました。ガラシャの頃はそれでもまだ十軒くらいの小さな村があったようです。

 

驚くばかりの深山の真ん中でした。ウグイスの声だけがしきりに聞こえてきましたが、それ以外はいっさいの物音がしませんでした。鳥以外の音と言といえば風くらいでしょうがその日は風もなかったので、都会ではどんなにがんばっても作ることの出来ない無音無人の世界でした。そこにせめて30分くらいは身を置いて見たかったのですが、タクシーを待たせての切ない旅ですからそうもいきません。あたりをさっと歩いたり一面の山々を眺めたりして、そそくさと車に乗り込んでしまいました。

4月のおわりでしたので、山々を飾る新緑の美しさ息をのむほどでした。山桜もところどころに咲いていて風景の見事さにはたとえようもなく、目の奥にしっかり焼き付けておきたいと必死になって見つめました。そして秋の風情は春以上だろうと、だが、秋の淋しさは春の比ではないだろう、まして冬はどんなに厳しいだろうと春夏秋冬にまで思いが広がりました。(つづく)

 

 

 


  • 2010.05.08 Saturday - 06:19

細川ガラシャ その生と死 その5

 
妙義山 

  
まず、父明智光秀の謀反です。自分の主君に反逆することは時代が戦国時代であっても世間を大きく揺るがす一大事件でした。その時の信長は文字通り天下に並ぶものなき勢力を誇っていました。誰も対抗できない天下人でした。その信長を、家臣である光秀が襲撃したのです。これは謀反であり反逆であり、裏切りでした。父を信頼していたガラシャのショックは並のものではなかったでしょう。さらに細川家の態度がガラシャにさらに大きなショックを与えます。

 

本来なら明智家と細川家はガラシャを帯に強い絆で結ばれているはずでした。それ以前から光秀と舅に当たる藤孝は親友関係にありました。いざというとき利害を超えて援助の手を延べる関係にありました。それを、舅は剃髪して幽斎と名乗り、夫はもとどりを切って信長の喪に服すという態度を現します。と言うことは光秀を援護せず、見捨てたと言うことです理由は光秀は決して天下を取ることは出来ない、早晩秀吉か徳川に討たれるだろうから味方しても無駄だ、味方したらそれこそ災いに遭うと判断下からです。

 

ガラシャは二重の衝撃を受けて深い傷を負います。

 三浦綾子の著書を借りますと、『乱世にあっては、強い者が弱い者を倒す。これが唯一の法則なのだ。玉子は心の底にぽっかりと穴があいたようなむなしさを覚えた。信長は父に数々の冷酷な仕打ちを加え、挙げ句の果てに領地まで取り上げた。追いつめられた父は、信長を討つよりいたし方がなかったのだ。その父に味方する武将はいないのか。玉子は納得できなかった。思うたびに、舅の幽斎と夫忠興への不満が、心の底に澱のようにたまっていく。夫に対して憎しみに似た感情さえ湧くのをどうすることもできなかった』 

 十六歳で嫁いだ世の中の汚れや醜さを知らない武将の娘ガラシャが、心に深い傷を負い、舅も夫も頼むに足らないことを痛切に知っていくのです。

 

さて、細川家としては秀吉につくことになった以上、 光秀の娘をそのままにしておくことはできません。忠誠心を疑われてしまいます。細川家としてはガラシャを何とかしなくてはなりません。実家に戻そうにも、明智家は全滅しています。お家大事の重臣の一人は即刻ガラシャのいのちを取るように主君である忠興に迫ります。しかし忠興は彼なりに妻を愛しており、なんとしてでも助けたい一心で激論の末、とうとうここならば誰の目にも付かないだろういう山中にかくまうことに決定します。こうしてガラシャは細川家の領地内にある味土野という深山に幽閉されることになります。

 

味土野とは味と土と野原の野の三文字を当てます。三浦綾子はみとの、永井路子はみどの、とわざわざルビを附っているのがおもいろいことです。どちらが本当なのか興味をそそられます。実は私は以前からこの地にとても惹かれるものがありました。いつか行ってこの目で見てきたい、そんな淡い思いを抱いていました。(つづく)

 


  • 2010.04.30 Friday - 10:34

細川ガラシャ その生と死 その4

 

その年秀吉はキリスト教禁止令を出し宣教師たちを追放します。

 さて、玉子の受洗を知った忠興は激怒しますが、どんなに迫害されてもそこだけはガラシャは譲りません。文字通り死を覚悟してのことでした。

 秀吉のキリシタン迫害はさらに激しくなり、長崎で二十六人のキリシタンを処刑します。キリシタン大名で有名な高山右近などは領地を奪われ一介の武士に成り果てましたが信仰を貫きました。当時右近のような大名たちが少なからずおり、また信徒も増え続けたそうです。

 

その間にも世は激しく移り変わり、さしもの秀吉も死んで行きます(63歳)。さあ、天下を治めるものがいなくなると、その座を目指してまた天下取りの激しい戦いが始まります。この機を長年待ちこがれていたのはご存知徳川家康です。豊臣と徳川の最後の戦いが迫っていました。

 

細川家ですが、今度は家康側につこうとしています。生き延びて家を守り今以上に家名を高めていくために細川家はいつも時代の流れを素早く読みとり、その時の権力者についていくのです。

 天下を分ける関ヶ原の戦いが迫っていました。豊臣の総大将は石田三成です。そしてこの戦いこそガラシャの運命をも決定する一大戦いとなりました。

 

ところで、細川ガラシャと言えば、信仰を守り通して自ら死を選んだ、いわば殉教に等しい最期を遂げた人として、その壮烈で潔い最後の故に今に至るまで語り継がれている人ですから、このあたりは歴史の状況を絡ませて少し詳しく見ていきます。

 1600年6月、天下を関ヶ原の戦いへと導く導火線とも言える戦いが始まろうとしていました。家康が会津の上杉を討伐しようとして兵を挙げます。細川家に出陣が要請されてきます。そうなれば必ず豊臣側すなわち石田三成が後を追ってくるのは明白です。その際、三成は徳川方についた武将たちの妻を人質に取ることは言わずもがなでした。家康さえ側室を大阪城に差しだしています。

 出陣前夜、忠興は愛する妻ガラシャを大阪の屋敷に残していく苦悩を語ります。ガラシャを十八年前のようにどこかに隠したいがこのたびはそれが許される状況ではない。かといって人質に差しだしたら徳川へ言い訳が立たず不利な立場に追い込まれる。だから家のために何があっても屋敷にとどまってほしい、つまり死んでくれと言わんばかりです。言われるまでもなくガラシャは覚悟を決めました。逃げも隠れもしない、もちろん人質にはならない。夫の意見に従いましょう、つまりは立派に最期を遂げましょうと言うのです。なんと残酷なことでしょうか。

 

忠興が家康に従って出陣したことを知った三成は早速ガラシャを差しだすように命令してきます。それを拒否したため、石田方から兵が出されます。ガラシャはかねて言い含めておいたように信頼する家臣の手に掛かって命を絶ちます。その後家臣たちは火薬をまいて火を放ち、全員切腹して果てます。細川の屋敷は轟音を挙げて火を噴き焼け落ちるのです。その時ガラシャ38歳。慶長5年、1600年7月17日、まさに関ヶ原の前夜の出来事でした。 

 

以上がざっとですが歴史にもまた三浦綾子の一冊にも残る細川ガラシャの一生です。現代では想像も出来ない特種な時代の中で特殊な人生を送った人とは言え、なんと心揺さぶられる生涯でしょうか。

 これを土台にしてさらに四つの出来事的を絞りガラシャの生き方、死に方を探っていきたいと思います。その四つとは

*父光秀の謀反とそれによる味土野への幽閉、

*夫が側室を作ったこと、

*キリストの信仰を持ったこと、

*壮烈な死、が挙げられると思います。

                       (つづく

 

 

  • 2010.04.25 Sunday - 20:41

細川ガラシャ その生と死 その3

山の花 


 玉子は一時人目に付かないところに隠されることになりました。幽閉です。そこは丹後半島の中程にある味土野という山中でした。玉子はわずか数名の従者をつけられただけで幽閉されることになりました。
それがなんと二年におよびました。この隔離幽閉は玉子の精神生活に大きな影響を与えます。

 

玉子が味土野にいるあいだに天下は秀吉の世に移っています。秀吉は大阪に壮大な城を築き、今も名所になっている大阪城です、城の周辺に大名屋敷を造らせて妻子を住まわせる政策を採ります。細川家も玉造に屋敷を造ります。秀吉の許しがあって幽閉を解かれた玉子はこの新しい屋敷に入ります。

 

再び夫忠興との生活が始まります。夫忠興は玉子をいっそう大事にしてくれるのですが、味土野での孤独な二年間は玉子の心を以前とは違った世界へ導いていました。人生の牢獄、生き地獄と言ってもいいでしょう、そこに二年も閉じこめられた玉子は、表面的な安楽には満足することができない、夫に愛されてもそこに甘んずることができない、もっと次元と質の違ったもの、揺るがない真実を求めるようになっていました。

味土野まで玉子に従って玉子を守る忠実な侍女清原佳代からキリシタンの教えを説かれることもありました。その時は信仰を持つには到らなかったけれど、神への求道が始まっていました。

 もうひとつ事件がさらに玉子の内面を導きます。夫忠興に側室がいたことでした。味土野で夫を思い子どもを恋い涙している中で、夫は側室をおいていたのかと思うと、自分と夫の間には埋めようもない隔たりを知るのです。また夫さえ頼むに足りないと、むなしさの極みをさまようのです。玉子の魂は急速に明確に神に近づきます。

 

ついに玉子は忠興の留守に教会へ行く決意をします。忠興は玉子を決して外出させません。人目に触れさせることを極端に恐れ、閉じこめていました。ひとつには大名の妻に平気で手を出す秀吉の悪癖から妻を守る手段だったと言われます。当時の男性にしては本気で妻を愛していたのかもしれません。 

 

教会は玉造とは城を挟んで反対にありました。玉子は夫の命に背いて教会に行き、宣教師に会い、キリスト教の教えを直に聞くことができました。以来玉子の信仰は深いところに導かれついに洗礼を受けます。もちろん教会には行けませんから、宣教師の指導を受けた清原マリヤが授けました。洗礼名をガラシャと命名します。ガラシャとはグレイス、つまり神の恩寵、恵みという意味です。味土野から三年、玉子25歳のことでしたた。(つづく)

 

 

 

  • 2010.04.23 Friday - 08:00

細川ガラシャ その生と死 その2

 

玉子は十六歳になると、同い年の細川忠興の妻として細川家へ嫁いでいきます。ですから玉子は細川忠興の妻ガラシャとも呼ばれます。この縁談は主君信長の鶴の一声によるものでした。もっとも犠牲の色濃い政略結婚ではありません。明智光秀と細川忠興の父藤孝とは信頼しあった盟友で、ともに信長の家臣として戦場をかける間柄でした。

 

細川家当主の藤孝の母が公家清原家の人であったので細川家の日常は公家の生活様式や習慣が色濃く、いわゆる公家風でした。武家育ちの玉子のために公家出身の清原佳代と言う女性が侍女としてつかえます。この佳代こそ玉子をキリストに導くキリシタンでした。洗礼名をマリヤと言いまして、清原マリアと呼ばれることもあります。 

 

夫になる忠興は勇猛な戦いぶりで信長の信任を得た戦国大名にふさわしい武将です。父藤孝は信長に仕える前は室町将軍義昭の家臣でした。「細川家は文の家でもある」と彼自身が言っているように風雅のたしなみも深く古今集などにも通じた人でした。藤孝は世の中の動きを読みとるのに長けた人で、世渡りの名人です。信長、秀吉、家康と移り変わる権力をよく見極め、策を練って生きのび細川家を守っていきます。かつて総理大臣になった細川護煕もこの家の末裔だそうです。今に至るまで連綿としてお家が続いているわけです。ガラシャの生き死がそれに大きな一役を買っていることは確かです。

 

さて、細川家に嫁して四年、玉子に取っては戦乱の世にしては穏やかな年月が過ぎて行きます。ところがそれもつかの間で、忠興玉子夫妻二十歳の年(二人とも同い年、)、玉子の境遇を一変させてあまりある一大事件が起こります。世に言う本能寺の変です。玉子の父明智光秀が主君信長に謀反を起こし京都本能寺に宿泊する信長を襲うのです。信長はその時並ぶのもなき天下人になっていましたから、彼を倒した光秀が天下を取ったことになります。光秀がなぜ主君に背いたのか、謀反を企てたのか、そのあたりの事情は小説に戯曲に語られております。また今はそれを縷々と物語る場ではございませんので割愛いたしますが、光秀は主君に背く逆臣としてとして悪役を振り当てられていますが、光秀にももっともな理由があったようです。

 

この事件は天下の一大事以上に娘である玉子に取っては一大事でした。それはまた細川家にとってもお家の存亡に係わる一大事件でした。申し上げていますように玉子の舅細川藤孝は光秀とは親友と言っても言い間柄です。こんな時真っ先に光秀を応援するべく立ち上がるのが友情というものです。光秀も心から藤孝を信頼し協力してくれると願っていました。直接に何度も使者を送って兵を挙げてくれるように要請しています。しかしです、藤孝は御輿を挙げません。光秀がそのまま天下を取れるかどうか様子を窺い、一方ですばやく集めた情報から光秀に勝ち目がないことを判断します。

 

秀吉が光秀討伐に向かうことを知ると彼はすぐさま頭を丸めて出家しその名も幽斎と名乗り、忠興も、もとどりを切って光秀側には組みしないことを天下に示すのです。細川家の巧みな生き方、世渡りのうまさが躍如として見られるところです。ところで細川家としては玉子の扱い方もまた迂闊にはできないことです。

 

光秀の妻も子どもたちも全員城とともに命を落としました。玉子だけが残っていました。秀吉が光秀を討てばその光秀の娘と縁を結んでいる細川家は立場がありません。玉子は迷惑な存在です。迷惑どころかいてもらっては困るのです。場合によっては亡き者にして証を立てなければなりません。残酷なことですが戦国の世ではざらにある例でした。しかしさすがに幽斎も忠興もそこまでは考えなかったようです。 (つづく)

 

 

 

  • 2010.04.18 Sunday - 08:44

細川ガラシャ・その生と死 その1

 
マーガレット 

ブランクが続いてしまいましたが、また、続けます。
ご愛読いただければ幸いです。


はじめに

 今回は聖書を離れて、日本の歴史の中から、キリシタンと呼ばれたカトリックの信仰者細川ガラシャを取り上げ、その生き様、死に様を含めて彼女の生き方から女性の賢さを探りたいと思います。

 
 私くらいの年代になりますと、正式に年齢を公表するのをためらうほど微妙な年齢であるわけですが、お子さまをお持ちの方は結婚や出産があり、一方で親たちが文字通り高齢になり、あるいは天に帰っていく、正に生と死を直面する立場に立たされています。そして気がつくと自分自身も一年ごとに年を加えて行く、逃げることの出来ない現実に直面しているわけです。そして生きること、そして死ぬことを他人事ではなく自分自身の大きな出来事、あるいは問題として取り組まざるを得ない、そうした渦中の人となっているのです。

 でも、考えてみますと、これは年を取った者たちだけの問題ではなく、およそこの世に生きている者はみな生と死に真剣の向き合わなければならないと言うことだと思います。そして真剣に向き合った者だけが真に生きることが出来るのでしょうし、あるいは本当の死を死ぬことが出来ると言えましょう。

 
 その意味で、細川ガラシャはその生と死においてまたとないサンプルを見せてくれる女性です。生き方から死に方から大いに学ぶことが出来ます。ガラシャの人生を生き方、死に方に焦点を当てて追いかけてみます。

 

みことばを挙げてみます。

    ピリピ二・2021 

    生きるにしても、死ぬにしても、わたしの身によってキリストのすばらしさが現されること。

    私にとっては、生きるはキリスト、死ぬこともまた益です。

  伝道の書3・1〜2 

 天の下では、何事にも定まった時があり、すべての営みには時が有る。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。

 私たちの国籍は天にあります。ピリピ3・20

  彼らはさらに優れた故郷、すなわち、天の故郷にあこがれていたからです。

ヘブル11・16

 

 
 今回主に参考にしました書物は、三浦綾子の歴史小説『細川ガラシャ夫人』と、もう一つは永井路子と言う女流小説家の『朱なる十字架』です。

 

 私はガラシャについては以前からたいへん興味を抱いておりました。大名の妻でありながらキリシタンであることにまず驚きました。また彼女が本能寺の変で天下の信長に反旗を翻した明智光秀の娘だと言うことで、戦国時代の女性の中では特に関心がありました。 私もいつの日か、ガラシャをヒロインにした小説を書きたいという夢もあります。またガラシャは敵方の手に落ちるのを拒んで自ら命を絶ったと聞いていましたから、クリスチャンが自殺してもいいのだろうかとの疑問も抱いておりました。

 
 イスラエルにもガラシャがいたのです。

 ナザレの聖誕教会だったでしょうか、世界各国を代表する女性たちが赤ちゃんを抱いている絵が掲げられていました。マリヤとイエス様の聖母子像をなぞらえたのでしょう、その中に垂髪、いわゆるおすべらかしに立派な打ち掛け姿の女性が赤ちゃんを抱いているのが日本の代表という形で有りました。その女性はガラシャだと言うことでした。世界のキリスト教会では、特にカトリックでは、ガラシャは信仰者の模範として高く評価されていると言えます。

 

 ガラシャとは洗礼名です。グレイスすなわち恵み、恩寵を表す言葉です。本名は玉と言います。西暦1653年、信長が桶狭間に今川義元を破って三年後、そんな時代に生まれます。父は明智光秀、後に信長の家臣になります。信長と光秀との関係などの詳しい説明は省きます。が、後に光秀は信長に反逆します。信長が光秀を非常に忌み嫌い、過酷な扱いをしたことは歴史がはっきりと語るところです。

 

ガラシャは当時の女性としては珍しく自分というものをしっかりと持っていた女性、また思ったことをはっきり言葉にする女性のようでした。それは父光秀と母熙子の自由な愛の中ではぐくまれたしるしです。綾子はそこにも言及しています。永井路子の小説では天真爛漫、好奇心が強く、一時もじっとしていない少女、陽気で、屈託がなく、苦労知らずの武家の娘だと十六歳のお玉を描いています。さらに咲くことだけ知って、風雨に打たれて落ちることを知らない稚い梅の花と形容しています。またガラシャはまれにみる美人と語り継がれていますが、容貌の美しきことたぐいなく、楊貴妃桜を見るようなあでやかな美貌と記録に残っているそうです。

 

三浦綾子はその美しさを「七歳にして早くも人の目を集めた。豊かな黒髪はひときわ黒くつややかで、色白のふくよかなほお、賢そうに見開いた切れ長な目、描いたような唇、玉子のいるところは、光りをさすようなまばゆさがあった」と記しています。二人の女流文学者が口をそろえて言うところはガラシャは聡明で美人であったと言うことです。さしずめ聖書の女性の中にガラシャによく似た女性を捜してみますと、高貴な地位にいた女性としてはダビデの妻アビガイルやペルシャの王妃となったエステルを思い出します。

 

ガラシャがあまりにも美しかったので夫忠興はガラシャを屋敷の奥深くにかくまい、外出は厳禁、身近な家臣でも男性は御簾を通してでなければ会わせなかったそうです。忠興は嫉妬深い男として世間の物笑いになったそうですが、それほどに美しい女性であったようです。(つづく)

 


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