calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>

profile

selected entries

categories

archives

recommend

links

search this site.

sponsored links

others

mobile

qrcode

powered

みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2010.04.06 Tuesday - 22:18

モーセを救ったパロの娘 その8


 パロの娘は旧約版よきサマリヤ人ではないでしょうか。

パロの娘の賢さはいのちを大切にし、いのちを育てたことと、結論したいと思います。三千年ももっと前の時代に、積極的に社会的弱者に近づき、助け、育てたのです。自分の持っている力を惜しみなく注いで、勇敢に立ち向かったのです。私たちが見習いたいお手本ではないでしょうか。

 

歴史の上でもこうした愛の人はたくさんいます。

孤児院を建てて三千人もの孤児を養ったジョージ・ミューラーのことはよく知っています。また、近年ではマザー・テレサがいます。マザーは路上やゴミ捨て場に捨てられている半分死んだような子どもたちを抱えてきて育てました。初めはたった一人の子を助けるところから始ったのす。

 

これは世界のことですが、私たち日本にも孤児たちのために命をかけた人たちはたくさんいます。岡山の石井十次という方をご存じでしょうか。また戦後まもなく、沢田美紀さんがエリサベツ・サンダース・ホームを建てて多くの孤児たちを養ったことはまだまだ記録に新しいことですし、大磯に記念館があるそうです。

 またかの細川ガラシャ夫人は、戦国時代の大名の奥様でありながらキリストの信仰を持った人です、この勇敢な女性は、お城の中に施設を設けて、野山に捨てられている子どもを養ったそうです。キリシタンになった次女たちが捨て子を拾ってきたそうです。

 歴史上には実に多くの有名無名のパロの娘がいるのです。これはすばらしことです。子どもをいじめるパロやイエス様時代のヘロデ王のような恐ろしい人もいますが、パロの娘たちの末裔もまた大勢います。

 

パロの娘を愛の行動に駆り立てたのはいのちを愛する思いです。自分一人では生きていけない弱い、弱いモーセへの厚い愛情、かわいそうにと思う情愛です。だれにでも神様が備えてくださった本能とも言える性向です。私たちの内にも備わっており、あふれているものです。それを使おうではありませんか。どのように使ったらいいのか、それはおひとりひとり神様に祈って教えていただいてください。一人でできなかったら、二、三人でグループになるのもいいでしょう。そうして、弱者たち、特に子どもたちへの愛の働きかけをしていけたら、何と幸いな生き方となることでしょう。(おわり)




 

 

 

  • 2010.03.31 Wednesday - 14:12

モーセを救ったパロの娘 その7

 

赤ちゃんは泣きすぎて声がかすれて、息も乱れている、目の周りには涙がこびりついているのです。『その子をあわれんで』と聖書にありますが、これはその時の女性の心情を真実に余すところなく実に的確な言葉で表現しています。かわいそうに、かわいそうに、そう思ったのです。ごくごく自然の感情です。幼い子をかわいいとか、かわいそうにと思うことに、学問も知恵もいりません。地位も名誉も必要ではありません。人間が生まれながらに持っている、言い換えれば、神様の創造のみわざの一つ、つまり、本能です。このときだれもがモーセを見てあわれに、かわいそうに思ったのです。だれひとりそう思わなかった人はいなかったでしょう。パロの娘に付き従う侍女たちも全員がハッと息を呑み、かわいそうにと思ったでしょう。その思いはとても大切です。

 

現代はどうでしょうか。世界各地で起こっている悲惨なュースを見たり、聞いたり、読んだりします。そして私たちも同じようにかわいそうにと胸を揺さぶられ、時に涙を流すこともあります。それはすばらしいことです。そうした熱い思いが満ち満ちるのが大切だと思います。家庭に、地域に、社会に、国中に、世界中に、危機に局面している子どもたちを知って、かわいそうに、哀れにと思う重いが満ち満ちる、愛の思いがあふれることがまず第一に必要です。その思いは祈りになります。祈りは行動を産みます。小さなことでしょうけれど、笑顔になり、優しい言葉かけになるでしょう。

 

さて、その次です。パロの娘は心だけでなく、手を出し足を出し身を乗り出して、かわいそうな子と関係を作ります。実際に助けるわけです。この場合は自分の子として育てることを決意するのです。これはめったにできることではありません。

思ったことを行動に移す、これこそが至難の業です。思ったことから行動へ行くのには大きなエネルギーがいります。思うことと、実行することの間には越えがたい深い谷があり、長い長い道のりがあるのです。それはみなさま、思い当たることがたくさんおありでしょう。

 

思うことにだけだったら世界中の子どもたちも救えます。でも実行するとなると、ごく近くの一人の子どもにさえたいしたことはできません。

聖書によきサマリヤ人のたとえ話があります。道ばたに倒れる瀕死の人を見ても、そっとそばを通り過ぎていく人たち、聖書では非常に非難されて、私たちも読むたびに軽蔑の思いを抱く人たちですが、実は自分自身ではないでしょうか。

 

そしてあのかわいそうな旅人に親切にしたのはなんと敵方のサマリヤ人だったのです。親切にして当然、愛の行為のできる立場の人たちが素通りして、しなくても非難されない立場の人が、駆け寄って合いの手をさしのべています。(つづく)

 

 


  • 2010.03.25 Thursday - 13:19

モーセを救ったパロの娘 その6

 

今回どうしてこの女性を取り上げようと思ったか、その当たりをお話します。

話はがらりと変わりますが

日々伝えられる様々なニュースの中で、私が一番聞きにくいこと、耳をおおいたくなるのは子どもたちの事件、とりわけ幼児虐待です。事件の詳細な報道を穏やかに聞いてはいられません。みなさまもきっと同じでしょう。自分の血肉を分けたわが子に、どうしてむごいことができるのかと、それこそ胸が張り裂けそうになります。

 

一方、世界的に少子化時代です。今の時代ほど幼子のいのちが大切なときはないでしょう。人口減少は国家存亡、地球の危機です。世界中で子どもたちを大切に守り育てなくてはいけないときです。もちろん今だけそうしなければならないと言うのではありません。そして現代はいのちのがどんなに価値のある高価なものであるか、世界の隅々にまで認識が高まっているときです。児童憲章を初めいくつもの法律ができて社会全体で子どもたちを守ろうとしています。

 

それなのに、一番子どもを愛し守らねばならない当の親たちが自分の子を育てられない、守れない、それどころか、傷つけ、いのちさえ奪ってしまうとは、これは言いたいどういう事なのでしょう。みなさま、小さいお子さんやお孫さんがいらっしゃいますか。

 

私事ですが、長女家族と同居しておりまして二人の孫とは乳児の時から激しく接触しています。それこそ再び母親役が回ってきたように錯覚するくらい関わっています。しかし我が子とちがうのです。何がちがうのか、一つは子どもたちを取り巻く社会や、将来の世界を考えるようになったことです。

具体的には、昨今私はこんな事に思い至ったのです。孫たちが成長していく、大人になるその時、彼らの生きる日本、世界はどうなっているだろう。いまよりすべてのことで住みやすくなっていてもらいたい、少なくとも戦争があってはならない、社会のモラルが悪くなっては困る、身近に恐ろしい犯罪が起こるのは困る、地球汚染がこれ以上進んでは困る、さらに、クリスチャンとして生き易い政治であってほしい、信仰生活に圧力や迫害があってはならないなど真剣に思い、祈らずにはおれません。自分の子育て時代にはそうしたことを切々と考えることはありませんでした。

子どもたちのいのちそのものがたいへんに愛おしく、美しく、まぶしく、貴く思われてならないのです。そうした思いめぐらしの中でふと、モーセを救ったパロの娘の行為が大きく見えだしました。

 

この女性は何と貴いことをしたのだろう、大切なことをしたのだろう。人の命が今よりずっと軽く小さく思われていたむかしむかし、王の一存で赤ん坊を川に投げ込めるような残酷な時代、そのような時代にあって、捨てられていた子を、水の中でいのちを落とすかもしれない危険から救ったのです。父親である王の名に背いてまで救ったのです。もし事が発覚したら、たとえ娘であろうとただでは済まないでしょう。覚悟の上での救済です。

 

もう一度、パロの娘が葦の茂みに置いてあるかごのなかの赤ちゃん、後のモーセを見つけた瞬間を考えてみましょう。みなさまもご自分がその場に居合わせていたら、あるいはパロの娘であったらどうしただろうと想像なさってください。(つづく)

 

 

 


  • 2010.03.21 Sunday - 07:52

モーセを救ったパロの娘 その5

 

こうしてヨケベデの息子はパロの娘の息子として宮殿に住まうことになったのです。そのときパロの娘は子どもにモーセという名を付けました。モーセとはパロの娘の付けた名前なのです。彼女は言いました。『水の中から、私がこの子を引き出したのです』と。

パロの娘は成長したモーセをみて、いっそう情愛が増したのではないでしょうか。少年モーセ、私たちはモーセと言えば老人姿を思い描きますが、エジプトの宮殿に育つ少年モーセ、青年モーセを想像するのも楽しいものです。

 

パロの娘は目の前にいる利口そうな元気な少年を見て、私がこの子をあの水の中らか救ったのだ。もしあのままであったら、おそらく今日の姿はないであろう。一人の人を救ってよかった、助けてよかった、私がそれをしたと、感激したのではないでしょうか。

パロの娘はモーセの救い主と言えます。私が救った、水の中から救った、

このことばにしばらく注目したいと思います。

 

パロの娘はヨケベデを乳母として雇いましたが、いくらなんでも数年の間にヨケベデがモーセの生みの母だとわかったでしょう。もしかしたら初めからわかっていたでしょう。もしかしたらでなくて、ミリアムが乳母を呼んでまいりましょうと言ってつれてきたその時から、知っていたでしょう。自分の子どもを見る母親の目は違います。まして、半分覚悟したわが子が死を免れたのですから、それが表情に出ないわけがありません。体中に現れていたでしょう。再びわが子を胸に抱いたときのヨケベデの様子からもありありとわかったでしょう。

 

でもパロの娘は素知らぬふりをしてヨケベデを乳母として雇ったのでしょう。ここはあとでもう一度詳しく考えたいと思いますが、深い意味があったのか、なかったのか彼女の心中はわかりませんが、事態を冷静に見ることができ、とっさに判断と決断のできる賢い女性ではないでしょうか。この振る舞い一つを見てもうら若い乙女とは思えません。王女ではあってもそれなりに人生の経験を積んだ人のように思えるのです。

 

そして、モーセを王宮に引き取ってからは文字どおり母親の役に精を出したことでしょう。彼女はモーセがかわいくてならなかったでしょう。その成長ぶりがどんなに楽しく、心を豊かにしたか、計り知れないものがあったでしょう。王女という特権、恵まれた立場をフルに使って、彼女はありとあらゆる良いことをモーセに授けたのではないでしょうか。

こうしてモーセは当時世界の文化の中心であったエジプト、その中心である王宮で、最高の教育を受けて成長するのです。異民族、奴隷の身分しか持ち合わせていない虐げられた民の子が、なんと不思議な生き方をしたことでしょうか。モーセは四十年を王宮の人として生きるのです。(つづく)

 

 


  • 2010.03.17 Wednesday - 22:33

モーセを救ったパロの娘 その4

  

突然、女の子が飛び出してくるのです。これこそモーセの姉ミリアムです。ミリアムは母ヨケベデの言いつけで、遠くからじっと事の成り行きを見詰めていたのでした。

ミリアムはパロの娘の前に駆けつけて

『あなたに代わって、その子に乳を飲ませるために、ヘブル女の乳母をよんでまいりましょうか』と、とんでもないことを言い出します。つまり、あなたがこの子を育てるのに当たって、乳を飲ませる人が必要です。私はお乳の出る人を知っていますから連れてきてあげましょうというのです。

 

これはヨケベデの差し金ではないでしょう。とっさにミリアムが思いついた事でしょう。もちろん見えないところで神様が関わっているのはよくわかりますが、ミリアムは状況から判断してそういうアイデアを提供したのです。ミリアムは後に女予言者として活躍するところを見ますと、神様の御霊の力をすでに宿していたと思われます。

 

ミリアムの発言は一つ間違えば危険が降りかかるような言葉です。これも実に大胆です。母ヨケベデがパロの娘が来るところにかごを置いたのにもまさる、大勝負です。

パロの娘は驚いたことでしょう。しかし『そうしておくれ』とミリアムの提案を受け入れます。ミリアムはすかさずすぐになんと赤ちゃんの実の母、生みの母、自分の母親ヨケベデを乳母として紹介するのです。

 

パロの娘はヨケベデに『この子を連れて行って私の代わりに乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう』と言って、ヨケベデを乳母として雇う契約をします。

ヨケベデは再びいとしのわが子を胸に抱くのです。だれはばかることなく、人前で堂々と、わが子を抱きしめるのです。名目上はパロの娘の子ですが、正真正銘のわが子です。もう隠さなくてもいいのです。泣き声を気にしなくてもいいのです。いつナイルに流そうかと死ぬほど苦しまなくてもいいのです。エジプトの宮殿から託された高貴な人を育てているのです。相当のお手当をいただいて。ヨケベデは自分の子を育てるのに、言うなれば敵側の王宮からお給料をいただいて育てることができたのです。

 

このあたり、聖書を読んでいて胸のすくような気分になりますが、一方でできすぎている話のようにも思えます。こんなにうまくいっていいの、こんなことあるのかしらと心のどこかに受け入れがたい思いがなきにしもあらずです。しかし聖書は私たちの小さな思惑などお構いなしにまっすぐに出来事を進めていきます。

 

子どもが成長して、いくつくらいになったときでしょうか、四、五歳くらいでしょか、いくらわが子でも乳母としての役目が終わったら子どもは帰さなくてはなりません。ヨケベデは王宮に連れて行きます。

この時のヨケベデはわが子との別れを辛くは思わなかったでしょう。数年の間にヨケベデは神様がこの子を使ってなにか偉大なことをしようとしておられるのを感じ取っていたでしょう。具体的なことはわからなくても、神のご計画を信じる信仰に立っていたのではないでしょうか。ですから、わが子が宮殿に住まうことを苦にはしなかったでしょう。むしろ神は何をなそうとしておられるのかと、楽しみでさえあったと思います。いっしょにいればヘブル人として奴隷の生涯しか待っていないのですから。(つづく)

 

 


  • 2010.03.12 Friday - 09:11

モーセを救ったパロの娘 その3

 

 そこへ、まさにパロの娘が水浴びに訪れるのです。この女性こそ、今日のヒロインです。彼女はめざとく例のかごを見つけます。葦の茂みにそっと置かれたかごです。

侍女が見つけたのではありません。パロの娘、言うなれば王女さま、現に新共同役では王女としています。日本的にはお姫様でしょう。特別な地位にいる、特別な女性、常識的に考えれば、お箸より重いものを持ったことないような、温室の中の温室育ちとも言える女性が、さっとかごを見つけます。付き従う侍女たちはナイルの岸辺を歩いていたと聖書は語ります。同じ場所にいるのですが、視線をはせる場所が違っていたのでしょう。パロの娘、この人に名前がないのでとても不便なのですが、いまさら私が名を付けるわけにはいきませんので聖書にあるとおりパロの娘で通す他はありませんが、このあたりからパロの娘の人柄を考えることができます。

 

パロの娘はそのかごを取ってこさせます。ふたを開ければ、生後三ヶ月の赤ちゃんがいたということです。聖書はその場面を『なんとそれは男の子で、泣いていた』と非常に具体的に描写しています。ヨケベデのいのちとも言える赤ちゃん、後のモーセが泣いていたのです。パロの娘ならずとも思わず抱き上げたくなるのは人間の自然の情愛ではないでしょうか。

 彼女は『その子をあわれんで、これはきっとヘブル人の子どもです』と言います。

ところでこの女性の年齢が気になります。娘と一口に言っても、内容はさまざまです。この場合、パロの娘というのは立場であって、未成年の少女かもしれないし、逆にかなり年を取っているかもしれません。パロの娘として王宮に住んでいるところを見ますと未婚ではあったのでしょう。

この後の物言いや行動から推察しますと、年端もいかないお姫様ではないように思えます。

 

パロの娘はかごの中の赤ちゃんに対して深いあわれみを感じ、すぐにヘブル人の子であると判断します。自分の父親がしていることですから、この娘は侍女たちに向かって「そんな子は死んでしまえばいい、すぐに捨ててしまいなさい」と命じてかごのふたを閉め、流れの速いところに流してしまっても、いいのです。むしろ、王の娘としてはその方が当然です。

 

ところが彼女は赤ちゃんを見てあわれみを感じるのです。ヘブル人の子を承知で深いあわれみを感じるのです。おそらく抱き上げて離さなかったのではないでしょうか。抱き下ろすことができない、離せなかったのではないでしょうか。赤ちゃんは泣いていたとありますが、どんな泣き方をしていたのでしょうか。泣き疲れて、かすれたような声だったかもしれません。パロの娘はかごの赤子を出したものの、これからどうしようなどとは少しも考えてはいなかったでしょう。ところがです、ここで思いがけなく場面が展開します。

(つづく)


  • 2010.03.07 Sunday - 16:21

モーセを救ったパロの娘 その2

 

アムラムとヨケベデは祈りに祈り、考えに考えてひとつの方法を見つけました。おそらくその知恵を授けたのは神様だったでしょう。

その様子を聖書はこう記しています。

 『しかしもう隠し切れなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていた…』

この記事をじっと見つめながら状況を分析してみましょう。

 

母親ヨケベデは次のようなことをしました。

 まず子どもを入れる入れ物ですが、パピルス製のかごを用意しました。パピルスとは水性の植物で葦に似ています。この植物は一般に紙の原料として有名です。水に強く、軽くて沈みにくいかごと言えます。そこに瀝青と樹脂を塗るのです。これは天然のアスファルトで、強力な接着剤です。ノアが箱船を作ったときも使いました。水に強く水の侵入を防いでくれます。防水の働きをするのです。つまりヨケベデはわが子をナイルに流すについては、水に浮くかごと、かごに水が入ってこないように最大限の工夫をしたのです。

 

それだけではありません。ナイル川に流すにあたっては、流れの緩やかな葦の茂みの中を選びました。聖書には流したとはありません、置いたとあります。葦の茂みの中にそっと置いたのです。そしてその場所はエジプトの王女、時のパロの娘が侍女たちを従えて水浴びに来る場所だったのです。あらかじめ調べておいたことは容易に想像が付きます。かごが人の目に触れるように、そして助けてもらえることを想定して、計算してそうしたのでしょう。しかしです、これは考えようによっては非常に危険な大胆な発想です。相手はこの忌まわしい命令を出した張本人の娘なのですから。敵の本陣へ飛び込むような一大冒険です。ヨケベデは何を考えていたのでしょう。

 

そして最後に、姉のミリアムを見張りに立てたのです。なにかあったら、すぐわかるように、ことによったら飛び出していけるようにでしょう。わが子を絶対に死なしてはならない、死なしてなるものかいうヨケベデの激しい思いが伝わってきます。

 (つづく)

 

| 1/1PAGES |