聖書の女性たち 『貧に生き、富に生く』その9

  • 2010.02.26 Friday
  • 20:19
 

  さて、神の人、何でもできるエリシャが改まってなんでもしてほしいことがあったら言ってくださいと申し出ているのです。こんな申し出をされたら、日頃無欲な人でも、この際、せっかく言ってくださるのだから、ひとつ願ってみよう、そう思わないでしょうか。それなのに、手を出そうとはしないのです。

 

ゲハジはそのままをエリシャに伝えます。これにはエリシャは困ってしまいました。ゲハジに「では、彼女のためになにをしたら良いだろうか」と相談します。ゲハジは彼女には子どもがない、夫も年を取っていると告げます。夫も年を取っていると言うことから、シュネムのこの女性がかなりの年齢であることが初めてわかります。もう子どもを生めるご夫婦ではないということです。ゲハジはどんなつもりでこんなことを言ったのでしょうか。

 

「あの人は裕福だから、それに年を取っているから、もうなにもほしいものなどないのです。あるとしたら、子どもくらいでしょう。もっともそれだけはどんなに願ってもむりでしょうけれど」と、女性からよい返事をもらえなかった言い訳をこんな理由で納得させようとして、子どもの問題を持ち出したとも取れます。ついでですが、ゲハジはエリシャの弟子とも思えない俗物で、物欲の強い男です。名前から私はゲジゲジを連想することがあります。

 

しかし、ゲハジは文字通り、女性に子どもを与えてあげてください、あなたならそれがおできになりますと、エリシャの力を信じて、そう言ったのかも知れません。

 エリシャはゲハジの言うことを一〇〇%まともに受け、女性を屋上に呼び、あなたは来年の今ごろ男の子を抱くだろうと告げます。女性はびっくり仰天します。ほんとうにこんなに驚いたことは初めてでしたでしょう。うそを言わないでくださいと激しく否定します。当然でしょう。

 

この女性、実は女性は子どもがほしかったと思います。結婚して何年経っても子どもができないのをひそかに悩み、苦しみ、悲しみ、子どもくださらない神に怒りを抱いたこともあったでしょう。聖書には不妊で苦しむ女性が何人も出てきます。アブラハムの妻サラがそうでした。サムエルの母ハンナがそうでした。バプテスマのヨハネの母エリサベツがそうでした。シュネムの裕福なこの女性も決して例外ではないでしょう、経済的には恵まれて人もうらやむ暮らしをしてきたでしょうが、その心には深い闇があったことでしょう。

 

しかし年月が経つに連れいつしか諦めに代わり、あるいはこれが私に与えられた人生なのだと肯定的に受け入れるようになり、「お礼をしたい、何でも言いなさい」とエリシャにいわれた時には、子どもの問題はもう整理されて、「民の中で、しあわせです」と言い切れる心境になっていたのでしょう。

 

ところが、子どもが生まれるだろうと言われて、ドキッとします。激しく動揺します。だれにも見せたことのない秘密の箱の蓋をガバッと開けられ、無遠慮に中を覗き込まれたような腹立たしさが起こります。今さら何でこんなことを持ち出して私を迷わすのか、よけいなお節介だと一瞬、思ったことでしょう。

 

しかし少し落ち着いてくると、エリシャの言ったことを考えるゆとりができ、もしもほんとうにそれが実現したらどんなにすばらしいだろうと、いままで押し殺してきた思いがむくむくと動きだし、ほんとうにそんなことが起こるのだろうか、そうなったらどんなに素晴らしいだろう、こんどはどうしようもなくうれしく、目眩がしそうになったことでしょう。 (つづく)

 

聖書の女性たち 『貧に生き、富に生く』その8

  • 2010.02.21 Sunday
  • 13:30

 

 シュネムの女性はエリシャをたびたびもてなすうちに、エリシャがただの人でないのに気がつきます。そこで、ご主人に持ちかけます。

 「あの方はきっと神の聖なる方に違いありません。ですから、屋上にしっかりした一部屋を作り寝台と机と椅子とランプを用意しましょう。あの方が私たちのところにおいでになるたびに、そこを使っていただきましょう」

 

食事をさせるにとどまらず、一部屋を提供しようというのです。これは並々ならぬ気の入れようです。一時の思いつきでできることではありません。その理由は『神の聖なる方』にちがいないからと言うのです。おそらくエリシャの態度や交わす会話からそれがわかったのでしょう。『神の聖なる方』という言い方がとても印象的です。預言者の存在を知っていたかどうかわかりませんが、神の働きをする人に対して深い尊敬の念を抱いていたことがわかります。ということは、この女性にもかなり明確な信仰心があったと言えます。裕福とは言え、人一人をいわば養うのです。経済力だけでできることではありません。エリシャを理解してその働きを援助しようとの積極的な意志がなければできることではありません。

 

この聖なる貴い行為を神様が黙って見過ごすわけがありません。あのやもめには、『かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない』と言って、やもめが一番必要としていた食料を与え続けました。わずか一食分にも満たないささげものに対して神は一年分、いや二年分の食料を与え続けました。

 さて、裕福なこの女性に対して神はどんな祝福を与えたのでしょうか。

 

ある時エリシャは弟子のゲハジに言います。ここで初めて弟子が出てきますが、ゲハジはいつもエリシャに付き従っていたようですので、当然エリシャが食事をご馳走になるときは同席したでしょうし、与えられた部屋にも出入りしていたと思われます。エリシャはゲハジに伝言を与えます。

「あの奥さんにこう言いなさい、ほんとうに私たちのために一生懸命骨折ってくれましたが、なにかお礼をしたい。なにをしたらいいでしょうか。王か将軍にでも話してもらいたいことがあったらいいなさい」

 

エリシャの言うことは大きなことです。単なるお礼ではない、王や将軍など雲の上の人まで引き出して、願ってみなさいと言うのです。しかしこれは例えでなくて、エリシャは実際に宗教界だけでなく政治の世界にも力のある人だったのでしょう。こんなことを言われて女性はびっくりしてしまいます。

 「私は民の中で、しあわせにくらしております」と答えます。

 今、この町で、町の人々の中で、一庶民としてなに不自由なく、幸せに暮らしています、なにもほしいものはありません。不満はありません、十分しあわせですと言うことです。なんと慎ましく、謙遜で、麗しい答えでしょう。この一言から、この女性の心持ちが鮮やかに浮かび上がってきます。

 

『民の中でしあわせにくらしている』とはこれもまたなんと味わい深いことばでしょう。そこには、裕福であると言うことで自分を特別な者に見たり、特権的な地位に自分を置くようなことは見えません。上から見下ろすようにして愛の行いをしたのではないことがよくわかります。お礼や報いを期待しての慈善ではないのです。民の中に生きる、ともに生きる、今よく言われる共生という思いがあります。一庶民として、向こう三軒両隣りの人たちと深く交わりながら、喜怒哀楽、生老病死にかかわりながら、喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く生活をしているのです。たまたま自分が経済的には他の人より恵まれているので、それをできるだけ活用しているだけなのです。

 

裕福だからしあわせだと言っているのではありません。人を助けたり、物品を施すことができるからしあわせと言っているのではありません。民の中に暮らしているのでしあわせと言っているのです。そこに見えるのは慎ましやかな思いと人々に対する広い深い情愛です。そしてそれで十分、これ以上はなにも特別にほしいものや願ごとはないと言うのです。これを言い切れるのはたいしたことです。

 この女性のはるかなる線上に、人となられ、人の間に住んでくださり、与え続けてくださった神であるイエス・キリストの姿が浮かんできます。(つづく

 

 

 

 

 

聖書の女性たち 『貧に生き、富に生く』その8

  • 2010.02.15 Monday
  • 22:57
 

 聖書は次の列王記兇悵椶蠅泙后M喫,塀性と出会うのはエリヤの後継者となったエリシャという預言者です。エリシャはエリヤに認められ、弟子となってエリヤから信仰や預言者としての働きを手ほどきされ、エリヤが天に帰ってからは師にまさるとも劣らないほどの活躍をしました。たぶん二十歳位の青年の時から八十歳位まで、五十年間もの長期間にわたって、神のことばを預かって人々に語り、ある時は奇跡を行って庶民とともに生きました。

 

ある時、シュネムという町で一人の女性に呼び止められ、食事に招かれます。エリシャがその町に住んでいたか、なにか理由があって食事に招待されたのか、聖書には書かれていません。この女性は行きずりのエリシャに声を掛け、食事を与えたのです。

 

見知らぬ人を自分の家に入れて食事をさせるなどと言うことはおよそ今の私たちの周辺には見られないことです。こうしたことは当時ではよくあることだったのか、それとも特別なことであったのか、それもわかりません。

 

ただ手がかりとなることは、この国では古くから旅人に一夜の宿を提供する習慣がありました。かのアブラハムも、村にやってきた旅人を見ると飛んでいって声を掛け、自分の家に泊まってくれるようにと頼むようにして迎えています。イエス様も旅人をもてなすことは、自分にしてくれたことと同じだと言って高く評価しています。この女性は以前にも旅人をみると、もてなしていたのかも知れません。

 エリシャはそのときをきっかけにたびたび招かれて食事に預かっています。この女性はたいへん裕福な家の主婦でした。自分の経済力を人のために役立てようという思いで、通りすがりの人に食事を与えるなど愛の行いに励んでいたのでしょう。

 

私たちクリスチャンは献金という形で神様にささげものをしますし、時には自分の経済規模には大きすぎるほどの物質を神のため人のために使います。しかし時にはもっと経済力があったら、もっとよいことのために使えるのにと思います。今の自分のささげ方、使い方に決して満足してはいません。もし名が知れるほどの財産家であったら、あのことのためにも、このためにももっともっと惜しみなくために使うだろう考えます。でもどうなのでしょうか。お金があればささげられるのでしょうか。できないのはないからでしょうか。

 

イエス様は、金持ちが天国にはいるのは、らくだが針の穴を通るのより難しいといい、人は神に仕え、富にも仕えることはできないとはっきり言っています。イエス様はいつも貧しい人の味方でした。お金持ちがその財力ゆえに神さまにも人にも謙遜になれない例はいくらでもあります。ですから、このシュネムの女性がエリシャにしたことは、ツアレファテのやもめがエリヤにしたこととすこしもかわるところがありません。その心は同質と言えます。(つづく)

聖書の女性たち 『貧に生き、富に生く』その7

  • 2010.02.06 Saturday
  • 21:06

やもめのささげものについては新約聖書にも記されています。そのやもめは神様への感謝に居ても立ってもいられなくなったのでしょう、有り金全部ささげてしまいました。有り金と言ってもわずかにレプタという最低単位の銅貨二枚でした。二十円か二百円と言ったところでしょう。しかしイエス様はこのやもめは誰よりもたくさんささげたといって、誉めています。生活費全部をささげたのだからと説明しました。

 

エリヤにパンを食べさせ水を飲ませたやもめもまた生活の糧全部を与えてしまったのでした。神がやもめを放っておくでしょうか。餓死するままにするでしょか。

 その日からエリヤの予言どおり、空のはずのかめに粉があり、空のはずのつぼの油があり続けました。それは、あの荒野のマナのように毎日毎日必ず与えられました。また五つのパンと二匹の魚がどんなに配っても配っても足りなくならずついに五千人もの人が食べた、あの給食の奇跡のようだったのかもしれません。まさに神のなさる不思議なみ業でした。

 

やもめ母子とエリヤはそれを食べ続けて、干ばつの終わる日まで生きながらえることができました。やもめの小さな、しかし思い切った愛の行為が結局は自分の家庭を救うことになったのでした。貧しいから与えられないのではない、貧しさに生きていても、人を生かし自分も祝福される神の世界があるのです。『受けるよりは与える方が幸いである』とは裕福な人にだけ言われた言葉ではないことがわかります。

 

私は貧しいから受ける人であって、間違っても与える側の人ではないと考えてはいないでしょうか。与えるのはいつか、与えるだけの物持ちになってからのことと、自分を脇に置いてはいないでしょうか。私たちは神の愛の大きさに甘えすぎて、いつのまにかねだり癖がつきすぎているのです。

 

やもめは極貧にあってもそれを超越して愛の行為ができました。そしてそれは単に人を助けたのではない、それはまさに神を助けたことになりました。ここにやもめのの賢さがあると言えます。今度は正反対の裕福な女性を見ます。(つづく)

 

 

 

聖書の女性たち 『貧に生き、富に生く』その6

  • 2010.01.31 Sunday
  • 15:40

 

やもめの頭には自分の家の台所の隅にあるかめとつぼが浮かんできます。かめの底にこびりつくようにして残っているわずかな粉、油もつぼを逆さにしなければ出てこないほどのわずかな量です。それをこれから全部使ってしまうわけです。それがなくならないとはどういうことでしょう。どうしてそれを信じることができるでしょう。

想像を超えた保障は実際にはあってもなくても同じことです。信じ切れるだけの信仰、エリヤと同じ程度の信仰を持っていれば、あるいは信じられたでしょう。しかしやもめにそこまでの信仰があったがどうかはまことに疑わしいのです。ただし、神様はやもめの魂に、心に、思考力に、働いておられました。

 

やもめは再び言い返すことはしませんでした。エリヤの言うとおりにしました。やもめはなにを理由に決心したのでしょうか。エリヤの言う神のことばを信じたからでしょうか。それも少しはあったでしょう。やもめはいつもいつも空っぽになりそうなびんとつぼを見ながら、これら使っても使ってもなくならなかったらどんなにいいだろう、そんな魔法があったら教えてもらいたいものだと思ったことでしょう。だれかが知らない間に粉や油をいっぱいにしてくれたら、どんなにうれしいだろう、エリヤに言われる前にすでにやもめは、はかないとは知りながらもそんな夢を描いたことがあったかもしれません。

 

たとえば童話やファンタジーでしか聞けないようなことを、うそでも言いから聞かせてもらいたいと思ったことでしょう。目の前のいかつい厳しい顔つきの男がまじめに言うのを、やもめはこれ以上の慰めはないと、快い音楽を聴くように聞いたことでしょう。死ぬ前のせめてもの夢として楽しんだことでしょう。

 

家に帰ったやもめはいそいで残りの粉と油を最後の最後まで掻き出してパンを作ります。細かいことですが、三等分したでしょうか。やもめには男の子が一人いるようです。三等分したでしょうか。どうするでしょうか。この世の最後の食事になるかも知れない切ない、せっぱ詰まった食事です。こんなこと考えるのはつまらないことかも知れません。でも、考えてみたいのです。きっちり三等分でしょうか。それとも愛する息子に半分を使って、大人のエリヤと自分は残りを半分づつしたでしょうか。それとも男たちにほとんどを使って自分のはわずかに少しだけにしたでしょうか。それともです、どうせ食べたところで先が見えている。食べても死ぬなら、食べないで死んでもいい、いま欲しがっているこの人と息子にだけたべさせて、自分はいらないとしたでしょうか。いろいろに想像できます。

 

ともかくもこうしてやもめはわずかな粉と油で一つのパンを作り、水といっしょにエリヤのところに持っていって食事をさせるのです。

 私には新約聖書マタイによる福音書でイエス・キリストが言われたことが響いてきます。

 『あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べるものを与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。これらの最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです』

 

もめが飢え渇いている旅人エリヤにしたことは、すなわち神にしたことでした。やもめは自分が神を助けるなどとそのような大きなことをしているとは微塵も考えなかったでしょう。しかし神は人の善意をそのように拡大解釈して喜んでくださるのです。

 

おおよそ、人間が神を助けることなどできるでしょうか。神に助けられるのが人間です。でもたったひとつだけあるのです。それは愛の行いです。このやもめの場合、たかが一杯の水、一切れのパンであっても、全財産に匹敵する大切なものでした。まさにいのちの水でありいのちのパンでした。自分のいのちを差しだしたも同然です。しかしやもめは思い切って差しだしました。よくぞできたとおもいます。真似のできることではありません。

 

よく、人を助けたり、慈善の行いをするとき、できない場合、私には財力はない、もう少しあればできるのにとか、私には体力がない、もう少し健康だったら助けてあげられるのになどと言い訳をしますが、このやもめを見てしまうと、言い訳のいっさいが通用しないことがわかります。そしてなにもなくても人を助けることができるのだということがわかります。気持さえあれば、愛さえあれば、信仰さえあればできることがいくらでもあることがわかります。  つづく

 

 

聖書の女性たち 『貧に生き、富に生く』その5

  • 2010.01.25 Monday
  • 10:30

 

しかしこのやもめはそのときなにかを感じたのです。同情心が働いたのかも知れません。同じ貧しく飢え渇いている同類への哀れみのような気持が起こったのかも知れません。やもめが家に向かって走ろうとしたその時でした。エリヤはすぐにこの人が自分を養うために神が備えたやもめだとわかり、そのように確信したので、やもめの背後からもう一言付け加えます。

 『一口のパンも持って来てください』

 

水の他にパンももってこいと言うことです。これにはさすがのやもめも無言で承知するわけにはいかなかったようです。水の時は何も言わずにそのとおりにしようと思ったのでしょう。しかし、食料までとは厚かましすぎるではないか、そう思ったでしょうか。

 

実はやもめには事情があったのです。やもめは初めて口を開きました。

 『パンはないのです。家にはかめの底の一握りの粉と、わずかな油だけです。これしかありません。ご覧のとおり、この二、三本のたきぎでそれを料理して息子と食べると、もうなにありません。もう死ぬしかないのです』

 

何という悲惨な状況でしょう。あわれな家庭でしょう。極貧という言葉すら当てはまらない、餓死寸前です。いくら飢饉が激しくても、ツァレファテにはこのやもめより他にエリヤを養うのに適する人がいないのでしょうか。神様はなぜいちばん不適当な人を選んだのでしょうか。このあたりも常識的な考えでは解答のでないところです。やもめは、私だってもうすこし余裕があったらあなたの仰せのとおりいたします。でも、でも、私と息子の食べるにも不足するような、しかもたった一食分しかないのです。どうやってあなたに分けてあげられるのですか。どうしようもないではありませんか。

 

それに対してエリヤは言います。 

 「心配してはいけません。あなたが言うとおりパンを焼きなさい。ただし、まず、私のために小さな一個を焼いてここに持ってきなさい。それから後で自分たちのを作り、食べなさい。」そして付け加えます。「イスラエルの神、主はこう言われます。主が地の上に雨を降らせるまで、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない」

 

エリヤの言うことは実に実に理不尽なことです。まず自分のためにパンを焼いて持ってきなさい、あなたは残りを食べなさいというのです。こんな横暴なことがあるでしょうか。承諾できるでしょうか。おそらくこれだけだったらどんな人も承知できないでしょう。ところがエリヤは約束手形のように神のことばを渡します。それは干ばつが終わって穀物が取れるようになって食料が手にはいるようになるまで、粉がなくなることも、油が切れることもないと神が言われるというのです。

 しかし、このやもめにどれほどの信仰があったでしょう。やもめはエリヤがただの人ではないと感じたでしょう。なにか人間わざではないことをする人かも知れないと感じたでしょう。主が背後でやもめに働いていましたから、いつもより敏感に感じ取る力があったでしょう。しかしです、この飢饉が終わるまで粉も油もなくならないとは、とてもとても信じられなかったでしょう。  つづく

 

 

 

聖書の女性たち 『貧に生き、富に生く』その4

  • 2010.01.21 Thursday
  • 08:52
 

やもめは背後の神のドラマなどなにも知りませんでしたが、見るからにむさ苦しく、一見したところでは受け入れがたいエリヤの申し出を承諾します。ずいぶんと勇気が必要だったでしょう。

 この人に水をあげてもおそらく一つの礼もないだろうと、一瞬思ったかも知れません。爽やかな風貌の人なら喜んでできるかも知れません。裕福そうな人ならこれもまたなにか期待できるかも知れません、やさしそうな人なら話をしても楽しいでしょう。しかしエリヤはそれら人間的などんな価値観をもってしても合格基準には達しない、無骨そのものの人ではなかったでしょうか。

 

では、なぜやもめはエリヤを受け入れたのでしょう。

 干ばつのこの時期、川の水も干上がっているこの時、飲み水もたいへんな貴重品です。命綱のような水を例え少しと言えども分け与えることはすぐに自分たちの生活に響いてくるのです。やもめはエリヤの申し出を断れないことはないのです。断ってもだれも咎めることはできません。

 

しかしやもめは断りませんでした。素直に水を取りに行こうとしました。言われたとおり水をあげましょうとやもめの心は動いたのです。

 やもめはこの瞬間、神の見えないドラマの舞台に乗り、重要な一役を演じることになります。それまでもやもめは神様の視界の中にいました。私たちもそうです。全知をあまねく見渡す神様の眼の中に入ってはいるのです。神様は一人一人に人生のドラマを書いておられ、書くだけでなく演じる舞台も供えておられるのです。いつ舞台に登場させようか、それも供えておられるのです。 あるとき、さあ、出て行きなさい、あなたの出番ですよと声を掛け、照明係に合図してあなたにスポットライトを当てるのです。

 

それを気づく人と、気づかない人と、気づいても拒否したり、後込みしたりする人があるのです。それだけです、それが人生のドラマであり、人が運命と呼ぶことの実体ではないでしょうか。

 神の舞台に乗ったとたんに人生は変わっていきます。このやもめのその後はまさに逆転の人生です。もしやもめがエリヤの厚かましいほどの申し出を一瞬の判断で断っていたらその後の神のドラマはないのです。もしかしたら数日のうちに死んでいたかも知れません。命を取り留めただけでなく、まことの神を知り、その愛を体験する豊かで平安に満ちた生涯など望むべくもなかったでしょう。

 

では、どうしたら目に見えない神の御心を知り、エリヤを迎えることができるのでしょうか。今の自分の生活圏内、あるいは状況の中で、なにがエリヤなのか、どのように見分け、判断したらいいのでしょうか。

 私にも正解はありません。私自身神のドラマを見過ごし、舞台に乗り損ねて神の祝福を無駄にしているかも知れません。

 

しかしじっと考えますに、神様は私たちに歯の立たないような難問を出すはずがありません。禅問答のような、聞けよさ取れよと言うような、曖昧な神様ではないはずです。見えない神の細きみ声などとよく言われますが、神様はかなり大きな声でものを言い、はっきり目に見させ、この五体で実感できる範囲内で私たちを導いておられるのではないでしょうか。神様は私たちの弱さをいちばんよくご存じですから。

 

神様はこの時やもめに接近して意志に働きかけておられたとおもいます。やもめは心動かされたのです。もしやもめがエリヤの外見で損得を計算していたら、神が背後で働いていたとしても効力はなかったでしょう。 つづく

 

聖書の女性たち 『貧に生き、富に生く』その3

  • 2010.01.15 Friday
  • 07:24
 

エリヤははるばるツアレファテへ向かいます。ケリテ川のほとりからおよそ一五〇キロ以上の距離があります。これだけ離れたしかも国外なら少しは安全でしょう。しかも神様はエリヤを一人の貧しいやもめに託すのです。

 

神様はこれからエリヤに大きな働きをさせようとしておられました。聖書の少し先のほうにその壮大なドラマが記されています。それはアハブ王との対決です。国中にはびこっている偽宗教バアル信仰との戦いです。神様はそのためにエリヤを使おうとしておられました。ですからエリヤをしばらく安全に隠す必要があったのです。いちばん人目に付かない場所として、神様は貧しいやもめを選びました。

 

エリアが町に着きますと、ちょうど薪を拾っている一人のやもめと出会います。食事の支度のための燃料を拾っているのです。ちょうど夕方であったのでしょう。

 エリヤはやもめに声をかけます。

「水差しにほんの少しの水をもって来て、私にのませてください」

 

やもめは今まさに夕食の支度のために薪を拾い集めている最中です。その人に向かって、家に戻って水をもってきて飲ませてほしいというのです。礼を欠いた依頼です。やもめはひどく驚いたことでしょう。見れば、汗と土ほこりにまみれた、むさ苦しい限りの、恐いような男です。エリヤの風貌はけっしてよいとは言えません。ケリテ川のほとりに身を隠していたときも野宿をしていましたし、そのあとは雨の降らない原野を何日も歩き通してきたのですから。

 

やもめは、そんなエリヤをどう思ったのでしょうか、いわれたとおり水をもってくるために家に戻ろうとします。当時、またこうした地域では旅人を受け入れる習慣があったとはよく聞く話です。ですから、やもめでなくても他の人でもそうしたことでしょう。ところが神様はエリヤをツアレファテへ行かせるに当たって「一人のやもめに命じてあなたを養うようにしている」と言っています。これはどういうことでしょう。予め神様がやもめにあらわれて、いまにエリヤという私の大切な働き人が行くから受け入れ養いなさいと言ったということでしょうか。そう言うことではないようです。でも、やもめは全く知らないのです。

 

これは神様のご計画です、またエリヤへのヒントです。見知らぬ町へ行って、だれに声を掛け、どのような人の世話になったらいいのか、その目安を知らせたのだとおもいます。たとえ国外とはいえ、アハブの手が回っていないとも限りません。男性に近づくのは危険だということもあったでしょう。

 

ですから、エリヤは町には行ってすぐ目にしたやもめに近づいたのです。でも神の備えた人がこのやもめであるかどうかは知りません。しかし、神のご計画にある人なら自分の申し出を断らないだろうと考えていたでしょう。やもめは自分の知らないところで、自分の人生に係わる事柄が進められているなどとは露知らないのです。

 

そして、このようなことは神様とエリヤとこのやもめだけの特別なできごとではありません。おそらく、私たちの今も、私たちの人生にかかわる大切なことが神様のご計画で進められているのです。人はそれを運命というかもしれません。全く気がつかないうちに私たちの背後で神様がご計画し、エリヤが動いていのです。神の使いエリヤが今日あなたの人生に近寄って、ことを仕掛けてくるのです。そしてそれを受け入れるのも、拒むのも、一人一人の意志にかかっているのです。その選択はその人に任されているのです。 つづく

 

 

聖書の女性たち 『貧に生き、富に生く』その2

  • 2010.01.10 Sunday
  • 13:44
 

 干ばつが始まって国中が不安に陥っているその時に、エリヤはアハブ王に『神はこのこの先まだ二、三年は地に雨も露も降らない言っている』と告げます。その時エリヤは『私の信ずるイスラエルの神は』とアハブ王にしっかり聞こえるように、聞こえよがしにハッキリと言います。イスラエルの王であるアハブが民族の神を知らないはずはありません。ところがエリヤに皮肉混じりに非難を込めて言われてもしかたのない理由がありました。アハブはイスラエルの神よりも、妻イゼベルが信じているバアル信仰に傾いていました。イゼベルは隣国シドンの王エテバアルの娘で熱狂的なバアル信者でした。 バアルとは広くバレスチナ一帯で信仰されていた農耕神で、豊作をもたらす神として信仰されていました。イゼベルはバアルの宗教家を多厚く保護し活動を援助していました。

 

イスラエルは聖書の神を礼拝する家族から始まって、部族、民族、さらに国家を形成するまで発展、繁栄したのです。王たちも代々この神に仕える人だったはずです。ところがアハブは妻の影響でバアル信仰に熱を入れていました。そもそもそこにエリヤの戦いがありました。アハブ王もエリヤが神から使わされた預言者であることはわかっていたのですが、妻の勢いに負けてエリヤを悪者扱いしたのです。

エリヤは異教の神バアルと真っ向から戦う預言者でした。

 

もともと預言者というのは神から預かったことばを公に告げる人です。預言の預とは銀行預金などにつかう預かるという言葉です。よげんと聞きますと、未来のことを言い当てることだとおもいますが、聖書の預言は未来のことも含めて、神が特別な人にご自分の言葉を預けることをいいます。預言者として神から使命を託された人は、預かった言葉を間違いなく人々に伝えるのです。内容によっては言いにくいことも、また聞きにくいこともあります。たとえば今の場合、もうすぐ降りますよ、心配はないと神は言っていますといえば、人々は神を崇め、預言者はもてはやされるでしょう。

 

しかしまだ二年も三年も雨は降らないと言ったらどうなるでしょう。こんなことが国中に知れ渡ったら国民はパニックに陥り、何が起こるかわかりません。暴動になることもあるでしょう。統治者の王としては物騒なことを言う者を放っておくわけにはいきません。人心を攪乱する悪いやつだと言うわけで、エリヤはアハブから目の敵にされ、いのちを狙われる羽目になりました。エリヤは身を隠さねばなりませんでした。

 

神様もエリヤの安全を見守っています。

 神様はエリヤにケリテ川のほとりに隠れるように指示します。人里離れた鳥も通わぬ場所に、神様はカラスを用いてパンと肉切れを朝な夕なに届けさせます。しばらくの間、エリヤはそれで命を繋ぎます。

 やがて干ばつのために川の水が涸れてしまいます。水が無くては生きていけません。神様はエリヤに他の地にいくように指示します。アハブ王の目の届かない国外に行くようにとのことです。神は隣国シドンの地中海沿いの町ツアレファテへ行くように命じました。

 神様はエリヤに言われます

 『さあ、シドンのツアレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている』

                                   つづく

 

 

 

聖書の女性たち 『貧に生き、富に生く』その1

  • 2010.01.05 Tuesday
  • 16:13

 

イエス・キリストの2010年 明けましておめでとうございます。

昨年に引き続き『聖書の女性たち・女性の賢さを探して』シリーズを掲載いたします。これは、《聖書と女性セミナー》で講演した原稿に多少手を加えたものです。

今年もときどきお訪ねくださって、楽しんでいただけたらたいへん幸いです。なお、もう一つのブログ『希望の風』もご愛読いいただけたらと思います。



 

 

 今回は旧約聖書から二人の女性を取りあげます。

 一人は子どものいる極貧のやもめ、もう一人は子どものいない裕福な家庭夫人です。二人が置かれている状況は正に正反対です。しかし自分で選んで貧しくなったのでもなければ、選んで裕福になったのでもないでしょう。二人ともそれぞれに若い日々の歴史があったでしょうが、聖書に記されるその時点で、一人は飢え死に寸前、もう一人は富の使い道を考えるような境遇にいました。

 

考えてみますと、私たちの生活に経済の問題、貧富の問題はかなり大きな影響を与えます。健康問題も同じウエイトをもち、生き死にに係わってきますから大きな問題ですが、貧富の問題は昔から今に至るまで人類の抱える大問題です。貧富の問題は様々な悲劇、惨劇を生み、果ては戦争にまで発展します。そして、社会の悲劇の多くは貧しさゆえに起こります。私たちも多かれ少なかれ経済問題では悩まされてきたはずです。富めるがゆえの問題は、私自身に限っていえば皆無です。

 

しかし貧しさだけが問題を生むものではないようです。富があるゆえに悲劇が生まれたと言う話はよく聞きますし、全体的に見れば戦後著しく復興した私たちの国は世界ではお金持ちの国と見られるようになり、経済大国というレッテルを貼られていることはご存じのとおりですが、経済大国ゆえの社会問題、家庭問題も多々見聞きしているとおりです。

 
  聖書には貧に属する人々も富に属する人々もバランスよく登場します。

 そこにはさまざまなドラマがあり、その一つ一つが私たちにとって有益な学びを提供しています。前置きが長くなりましたが まずは貧しきやもめを見ていきます。

 

 聖書は旧約聖書『列王記機拿充珪呂任后ここは聖書の中ではたいへん有名な箇所です。エリヤという偉大な預言者が初めて顔を出すところです。

 旧約聖書の有名人を五人あげなさいと言ったら入ることまちがいなしの偉大な神の働き人、預言者がエリヤです。エリヤの生涯は波乱に満ち、数々のドラマチックな出来事があります。このエリヤを抜きにしては、本日のヒロイン貧しきやもめは出る幕はありません。エリヤの活躍した時代は紀元前860年前後、イエス・キリスト降誕前860年、あのダビデ・ソロモンの時代から200年ほど過ぎたころです。

 

場所はイスラエルの北部、北王国です。当時の王はアハブと言ってたいへんな悪王でした。王よりもその妻のイゼベルがウルトラ級の悪女でした。聖書最大の悪女にまちがいありません。アハブは一国の王ですが妻にはかないません。妻の横車がその国の治世にも多大な影響を与えています。こんな悪女を同じ女性に見るのはまことに情けなく恥ずかしい限りです。

 

当時、イスラエルは未曾有の干ばつに見舞われていました。雨が降らないのです。それは飢饉をもたらしました。水がない、そのために農作物が被害に遭い収穫ができない、つまり食料がないという一大危機のときでした。(つづく)

 

 

 

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