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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2023.07.12 Wednesday -

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  • 2009.11.04 Wednesday - 21:42

無名の賢女たち その12『スロ・フェニキヤの女性』

 *イエスさまにほめられる

 
 母親はイエス様の課題をみごとにクリヤーしました。

 子犬と言われても腹を立てない、もちろんイエス様は野良犬とはおっしゃらなかった、子犬とは今風に言えばペットでしょう。家族の一員のようにかわいがられて家族と同居して養われている犬のことです。そこに母親はすばやくイエス様の愛を察知して、飛びついたのでしょう。

 子犬なら、食卓から落ちるパンくずはいただいてもいいはずです、まさかそれまで嫌とは言いますまい、パンくずでいいのです、パンくずをください。それで十分娘の病は癒されるでしょう。

 

母親がパンくずを物乞いするのは、長血の女性がイエス様のお着物にさわりさえすればと言うのと全く同質です。そこに、イエス様は信仰という言う名を付けるでしょう、その真珠のような信仰が清い光を放っています。

 

そしてそのとおり、イエス様は即座に『ああ、あなたの信仰は立派です。その願どおりになるように』と母親を受け入れてくださいました。そのとき娘は直ったのです。 母親はイエス様の力を獲得しました。奪うようにして自分のものにしました。

 

この母親の場合は表面上はまことに烈しい戦いをして、死にものぐるいでイエス様の力を得たようにみえます。長血の女性の場合はイエス様ご自身が『私の力が出ていくのを感じた』と実に静かです。この対比もまた興味深いものがあり、考えさせられるところです。

 

イエス様はその人その人の事情や状況や、その人の個性や性質などを総合して、いちばんふさわしい仕方で、ご自身の力や愛を与えるのではないでしょうか。ある人には手の上に載せてあげるように、またある人には獲得させるようにして。でもいただいたものはおなじイエス様の愛です。この女性たちの場合はいちばん願っていた病の癒しでした。

 

ふたりのイエス様への表現の方法は天地ほどの差があるように思えますが、本質的には同じことです。長血の女性は『お着物にさわりさえすれば』と思い、母親は『食卓からこぼれ落ちるパンくずでもいただきます』なのです。そしてそれは非常に小さな簡単なことではないでしょうか。そっと手を伸ばすだけであり、あるいはテーブルの下にじっとすわって落ちてくるパンくずを食べることだけなのです。イエス様は二人のささやかな行為を信仰だと認めて、喜んで受け入れ、この母親の場合などは、あなたの信仰は立派ですと褒めちぎって喜び、大きな力を与えられました。

 

 *イエス様に自分を表現しよう

 私たち、特に日本人は信仰を頭で理解しようとする傾向にあるようです。キリスト教は難しい、頭がわるいからわからない、そう考える方が多いようです。

 でもイエス様がほめる信仰の実体をよくよく見ますと、ちっとも難しくありません。だれでにでもすぐできそうな、いとも簡単なことです。身近なことで具体的に意思を表せばいいのです。そっと手を伸ばしてイエス様のお着物にさわる、あるいはイエス様の食卓の下に座って、こぼれてくるパンくずを食べることでいいのです。たいした知識も、頑張りもいりません。

 

二人の女性たちは自分にできる小さなことを、一途な思いを込めてしたのです。これが二人の女性の共通の賢さではないでしょうか。そして、イエス様にとっては着物のふさであろうが、パンくずであろうが、そっとでろうが、烈しくであろうが、行為の様相はたいして問題にはなさらないのです。その簡単な行為をする、その人の考え方、意志、すなわち一途な信仰をご覧になり、喜んでくださり、受け入れてくださるのです。

 

私を助け、生かすのはこのお方しかいない、このお方お一人しか私の人生を変えることはできないという、たったそれだけの信仰があればそれで十分なのです。イエス様はその人を救ってくださいます。

 

賢い女性は『意思表示が上手』と結論しましょう。

 あなたは二人の女性のどちらのタイプでしょうか。

 そっとうしろから近づく方ですか。

 大声で叫びながらイエス様に体当たりするタイプですか。

 人にはそれぞれ個性があります。その個性、つまり自然体でイエス様のもとににいけばいいのです。そのときイエス様は喜んで受け入れ、願いをかなえてくださいます。   

 

わり

 

  • 2009.10.27 Tuesday - 18:37

無名の賢女たち その11『スロ・フェニキヤの女性』


 *娘の病に苦しんで

 もう一人は『カナン人の女』あるいは『スロ・フェニキヤの女』と記されている女性を取りあげ、長血の女性と同列に並べて、共通点や相違点を比較してみます。

 

この女性の名も聖書にはありません。生まれた場所からスロ・フェニキヤの女、また民族の名でカナン人の女と呼ばれているだけです。この女性はユダヤ人ではなく、外国人だと言うことです。この女性のせっぱ詰まった問題は娘の病です。病気の子を持つ母親の苦しみほど大きいものはありません。自分の病気よりよほど、よほど辛いものです。

 

当時、イエス様は身の危険を感じて、イスラエル領内の北西部、地中海沿いのツロとシドンの地の、とある家に身を隠していました。ところがどこで知ったのかイエス様がおられると知って一人の女性が大声をあげて『娘がひどく悪霊に取りつかれているのです』と飛び込んできます。イエス様は、ご自分の最大の仕事である十字架が迫ってきているので、そっとしていたい時でした。弟子達はそれを聞いていますから、女性を黙らせ、帰してしまいたいのです。さしずめペテロは説得にかかったのではないでしょうか。

 

でも女性はそんなことでは一歩も引き下がりません。この女性の娘の病は『ひどく悪霊に憑かれている』と表現されています。現代の医学から見たら何という病気なのでしょうか。心の病の一種と言ったらいいのでしょうか。ひどい錯乱状態になることがたびたびあったのでしょう。長血の女性の病のようにどうしても直らなかったのでしょう。

 

  *イエス様に体当たり

母親はどこかでイエス様の噂を耳にしたのです。イエス様の噂は風に乗って僻地まで聞こえてきたのでしょう。母親は娘の病を直せるのはこの人しかいないと信じたのです。この点は長血の女性の決心より強かったとおもいます。そのぶん、イエス様へのアプローチも烈しいのです。そっと人混みに紛れてイエス様に近づいたのではなく、大声を上げ、叫び声を挙げ、髪振り乱し、息せき切って訴えます。助けを願っているのが全身にあふれていました。イエス様に体当たりするような勢いでした、後ろからそっとお着物のすそにさわるとは正反対です。イエス様に飛びついて、イエス様のお着物が破れるほど引っ張って、しがみついても願いを叶えていただきたい、そんが一途さがあふれています。非常に積極的です。

 

イエス様はどうなさったでしょう。

こんなにまで頼み込まれては、イエス様でなくても、できることはなんでもしてあげたくなりませんか。おもわず手を差し伸べてしまいそうな状況です。

 ところが意外や意外、あのやさしいイエス様がどうしたことでしょう、冷たく、突き放すのです。びっくりです。

 『わたしはイスラエルの家の失われた羊以外には遣わされていない』とおっしゃるのです。つまり外国人のあなたを助けるのは私の仕事ではないと言うのです。この辺りを詳しく考えるのは今回は控えます。とにかく拒否します。

 

ところが、この母親はそんなことではひるみません。さらにイエス様に近づきひれ伏して『わたしをお助けください』と懇願します。ところがイエス様は

 『子どもたちのパンを取りあげて、子犬に投げてやるのはよくないことです』といっそうひどくつれないことを言われます。犬に分けてやる餌はないと言うことです。

何とひどい言葉でしょう。侮辱ではないでしょうか。どうしてイエス様はこんな対応をなさるのでしょうか。とてもワンダフルカウンセラーのイエス様とは思えません。

 

 ところがこの母親、このたびも負けません。母は強しと言いますが、この女性をここまで強くしているのはやはり母親だからでしょう。長血の女性を絹糸とすればこの母親は荒縄、ロープのようです。

 そしてイエス様に言い返すのです。

 『主よ、そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます』なんと機知に富んだ、ユーモアさえ漂う、それでいてくさびを打ち込むような説得力のある言い分でしょう。

 

この一言はイエス様のハートを快い音で打ったと言えましょう。イエス様はもしかしたらこの一言を待っておられたのかもしれません。母親の心底を見届けようとして、それこそ漁師が餌をまいて魚が食いついてくるのを待っているように、一見冷たそうなことばの餌を投げて、反応をみられたのではないでしょうか。イエス様が知ろうとしていることは『ほんとうにそうしてほしいのか』という問いへの答えです。(つづく)

 

 

  • 2009.10.17 Saturday - 09:46

無名の賢女たち その10『長血を患った女性』


問われる信仰


これだけの奇跡を、しかも大群衆のただ中で受けて、この女性は一躍有名人になったはずなのに、その名が町中に、近隣に広まったはずなのに、聖書には一言も本名がありません。おそらくその当座は十二年も長血を患った○○さんは、イエス様にすっかり直してもらったんだよと、きっと名前入りで騒がれ、伝えられたのでしょう、しかしいつの間にか時が経つに連れて噂が広がるに連れて名前が消えて、その事実だけが広がっていったのでしょう。また、当時の父系家族の習慣として女性の名は公には出されず、誰々の娘とか妻としか呼ばれないということも関係していたかもしれません。そして聖書記者達が記録を書くときに、聖霊はあえて名を記させなかったとも考えられます。すっかり癒されたとは言え、忌み嫌われていた病にかかった前歴を、名を記さないでそっと包み込んだのは神様の愛の配慮ではなかったでしょうか。

 

聖書は単に昔のできごとをそのまま伝えるドキュメンタリーではありません。ノン・フィクションの書物ではありません。神様は、いつの時代でも、聖書を手にする人が自分の生き方に当てはめる、適用することを目的とされました。そのことを考えますと、無名の女性の箇所に私の、そしてあなたの名前を書き込んでもいいのではないでしょうか。

 

十二年も、いやそれ以上の長い長い年月、長血の病気と同じような、どうしても治らない病、解決のしようのない問題、だれに見てもらっても、どんなに努力しても、だれに相談しても、ほんとうの解決が得られないで、半分諦めている諸問題をかかえている、私、そしてあなたに、この女性と同じような方法がありますよ、この女性と同じようにしたらきっと解決しますよ、『あなたの信仰が直したのです』とほめてあげますよ、やってごらんなさいとイエス様は催促しておられるのです。

 

この女性のように、これしかないと背水の陣に立つ思いでイエス様に信頼しているか、いつもいつも祈っているが、ほんとうにイエス様に答えていただきたくて祈っているのかと問われました。

 

私たちは結構格好のいい祈りをしています。もし、できますなら、もしみこころならばと。それは半分逃げているのです。期待していないのです。神様だってこのことだけはできない、これは私の負わなければならない十字架で、イエス様がむしろ恵みとしてあたえられた病だ、苦難だ、だから祈ってもだめだろう、などと。神様でもないのに勝手に判断していることが多いのです。不信仰という情けない実体を、委ねるとか十字架だとが口当たりのよい言葉にすり替えているだけなのです。

 

てんかんの病の子どもを持つ父親がイエス様にお願いに来たとき『もし、おできになりますなら』といいました。その時イエス様は叱りつけるように『できるものならというのか。信じる者にはどんなことでもできる』と言われました。父親はあわてて『信じます。不信仰な私をお助けください』と謝罪しています。イエス様は父親の信仰を確認してから、すぐにてんかんの病をいやしました。

 

またあるところでは癒しを求めてきた人に『ほんとうに直りたいのか』と念を押しておられます。『何をしてほしいのか』と質問しておられるところもあります。

 

私もイエス様に実現していただきたい願いがあります。いつも祈ってはいます。終わっていない祈り、成就していない祈りがあります。だからこそ祈っているわけですが。でも、そこで、はたと、問われました。忍耐深く祈り続けるのもいいが、ほんとうに信じて祈っているのかと。ほんとうにそうしてほしいのかと。長血の女性のように、イエス様のおられるところまで出かけて、手を伸ばして着物のふさにさわったかと。

 

自分ではかなり熱心に祈っているつもりです、ですからいつになってもかなえられないとこの祈りはみこころではないのかもしれない、神様の側にも時というものがある、今はその時ではないのだろう、すっかりおゆだねしますというおもいがあります。でも、もし、ほんとうにみこころがわかって委ねきったのなら、もうその祈りはしなくてもいいのです。それがゆだねるということです。しかし委ねたと言ってるにもかかわらず思い出しては雨だれのようにとぎれとぎれに祈っていることがあります。雨だれの祈りだから答えてはいただけないのです。

 

長血を癒していただいき、その上『あなたの信仰がなおしたのです。安心していきなさい』と最高の保障と励ましをいただいたこの女性にむかって、いいわね、うらやましいわとため息を漏らしたくなります。しかし、その後ろから、あなたもそうしなさい、無名の欄はあなたの専用指定席ですよと言われるイエス様のお声がきこえるような気がします。

ガーデン

 

この幸運な女性をもういちどみつめて、女性の賢さ考えてみます。

この女性は、お着物のふさにでもさわればきっと直ると、自分にできるいちばんしやすいこと、他の人から見たら簡単すぎてばかばかしいようなことを真心込めて実行しました。手を伸ばすだけの小さな簡単な行動でイエス様の力を引き出したのです。なんと効率のよい方法でしょう。これなら私にもそしてあなたにもできないことはありません。イエス様は私たちに難しいこと、ウルトラC的業をせよとはおっしゃってはいないのです。いとも小さき簡単なことでいいから全身全霊を注ぎ込んでする、その心を見ておられるのです。イエス様は行為の奥にある心、意志、信念、言い換えれば信仰をみたいと願っておられるのです。『小さなことでもけんめいに』それが賢い女性の生き方の一つではないでしょうか。   (おわり)

  

 

 

  • 2009.10.10 Saturday - 22:10

無名の賢女たち その9『長血を患った女性』

 

イエスの宣言

 さて、なおしていただいたこの女性は黙っているわけにはいきませんでした。自分を探すイエス様を前にして、隠れていることができませんでした。もちろん、すぐに名乗り出るほど行動力が強くなってはいません。周囲の目を恐れ、イエス様を恐れる思いが一気に消えてしまったとは言い難いのです。しかし、ついについに、女性は自分自身を明らかにするのです。

 

 『あなたにさわったのはほかならぬこの私です。あなたから力をいただいたのはこの私です。お着物にそっとさわればきっと直ると思ったからです』と。そして今までの経緯をすっかりお話しします。イエス様にですが、それはとりもなおさず群衆にも話したことになりました。『御前にひれ伏し、すべての民の前で』と聖書は語ります。この女性が直ったことはイエス様や側近の弟子たちだけでなく、町のおおぜいの人の知るところとなりました。

 

 町の人々と言えば、病の女性を白い目で見、ささやき、あるいは罵り、村八分にした、いわば加害者です。その人たちの前でということです。長血の女という身体中にこびりついていたレッテルが、その場で剥がされ、取り払われ、無用のものとして廃棄処分されたのです。その代わりに、イエス様に直していただいたという目映い大きな勲章が胸元を飾るのです。これは動かしがたい解放宣言です。これほど明確な事実を突きつけられてはもうだれも後ろ指を指すことはできないでしょう。イエス様は長い間失われていた女性の社会的立場、権利、存在そのものを回復なさなったのです。この女性に、新しく大手を振って歩む道を与えられたのです。なんという完全な癒しでしょうか。そして女性に向かって言うのです。

『娘よ、あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい』と。そのお声はしっかりとして大きくだれの耳にも聞こえたことでしょう。おごそかで力強いお声ではなかったでしょうか。

 

『あなたの信仰があなたを直したのです』

このお言葉にも万言を費やしても言い尽くせない豊かな意味があるでしょう。

私があなたを直したのではない、あなたが直りたいと思って、私のもとに自分から来たのです、そして自分の手を伸ばして私の着物にさわったのです、私にさわったのはあなたです、あなたが私の力を引き出したのです。これは簡単なようですがめったにできることではありません。よく、よくできましたね。

 

 そう言ってほめているのです。おそるおそるしたことが肯定され、賛成され、それだけでなくほめられたのです。こうまではっきり言われると自分に自信が出てきます。勇気が湧いてきます。自分で自分を肯定し、自分自身を受け入れることができます。それはその人を自立に導くことになります。そうです、イエス様はこの女性を自立させようとしておられるのです。イエス様はイザヤ書にはワンダフルカウンセラーと紹介されていますが、まさに人を自立させ真の人生に歩ませる名カウンセラーではないでしょうか。単にほめたり、受容するだけではありません。その人の中から自信を引き出し、自信を持たせ、その人の内側から生きるいのちを掘り起こしているのです。これこそが最高の救いではないでしょうか。

自分からしたことなら、またできるのです。外側からしなさいと進められたことは、よいこととわかっていても、なかなかできるものではありません。

 

しかしです、じっとこの女性を見てきまして、この女性がイエス様にほめられるような『あなたの信仰が』と断言されるような、一級品の信仰を持っていたのかと、ふと、思ってしまいます。イエス様、ほめすぎではありませんか。甘すぎる評価ではありませんかと少々クレームを付けたくなりませんか。でも、完全無欠なイエス様の判断に間違いはないでしょう。

 

イエス様はたった一つ、この女性のしたこと、イエス様の着物のすそにさわったことを取りあげて、『あなたの信仰が』と世にも美しい言葉に置き換えて、そこに目をとめて、それをポイントとしてみわざをあらわし、この人に新しいほんとうの人生を与えました。

 

この女性はこの経験を通してこれからの生き方のヒント、知恵、方法を知ったことになります。これから先の人生がこのまま順調に進むという保証はありません。何が起こるかわからないのが人生です。そうした場合が来てもこの女性はきっとこの時を思い出して乗り越えていけるでしょう。イエス様は女性の将来まで見通して、確かな保証を与えられたのです。

 

女性のしたことはわずかなことです。着物のすそにさわっただけです。でもイエス様はそれを信仰として受け入れてくださいました。ここにいいしれぬ慰めを見出します。イエス様は小さな子どもが差しだした五つのパンと二匹の魚、わずかなわずかな食べ物を五千人の人が満腹するほどの食事に変えました。

 この女性は病気以外に何も持っていませんでした。女性イーコル長血の女でした。この女性のしたことは、弱々しい手を伸ばしてそっとそっとイエス様のお着物にさわっただけでした。 つづく

 

 

 

  • 2009.10.03 Saturday - 16:05

無名の賢女たち その8『長血を患った女性』

 

 

もう一言『だれかが私にさわった』の一言にも注目してみます。

 イエス様は、自分から力を引き出して病を癒した、そのだれかに関心があるのです。

 手を伸ばしてさわったたった一人のだれかに、無数の人がいても、その中のひとり、そのだれかにイエス様は関心があるのです。イエス様の口座から預金を、いわば勝手に引き出した人、信仰という専用のカード、または印鑑を使って、預金を引き出したその人を知りたがっておられるのです。

 

なぜでしょうか。なぜ探す必要があるのでしょうか。力が出ていってその人の必要が満たされる、つまり病が癒されたことはもう自明のことです。イエス様が単に病気を治し、健康体にし、ふつうの生活ができるようにすることだけを考え、そのことだけに力を用いておられるなら本人を探す必要はありません。まさか見つけだしてお礼を言わせるつもりでもありますまい。

 

病気を治すこと、あるいはその人のかかえている、または今その人を苦しめている大きな問題にイエス様が大きな同情を寄せ、あわれみを感じておられるのは確かです。だからこそイエス様の愛の力はいつもいつも満ちあふれていて、どんな医者も治療法も方策もなし得なかったことを即座になさる用意があるのです。

 

しかしイエス様の関心事はもうひとつあるのです。マルコには『イエスは、それをした人を知ろうとして見回しておられた』とあります。ここがいちばん肝心なところです。イエス様の最大の関心事はその人自身にあるのです。その人を知りたいのです。なぜでしょう。イエス様はその人を生かす源であるその人の意志、心、魂まで新しくしたいのです。人は肉体だけで生きているのではありません。体だけ元気になってもほんとうのしあわせにはなれないでしょう。『人の生くるはパンのみによるにあらず』。これがイエス様の掲げる大きな主題の一つです。旗印の一つです。イエス様は病の治った後のその人の生き方に目を注いでおられるのです。その人を丸ごと救いたいのです。心も体も健康にしたいのです。イエス様の愛はそれほどに完全なのです。

  つづく


  • 2009.09.25 Friday - 16:48

無名の賢女たち その6『長血を患った女性』

 

出ていくイエスの力

 

 『私から力が出ていくのを感じました』との意味を見ていきましょう。これはよくよく掘り下げる必要があるとおもいます。

力が出ていくのを感じたとはどういうことでしょうか。まるでイエス様の意志とは無関係に、自動的に蓋が開いて、勝手に出ていくような言い方です。

 

今は便利な世の中になりまして、軽く小さなボタンを押すだけで、さわるだけで、ガスがついたり、水が出たりします。手を近づけるだけで水が出る蛇口もあります。意識してさわらなくても、まちがってさわっても火はつきますし、水は出てしまいます。それに似ていると解釈していいのでしょうか。

 

イエス様の力はあの蛇口の水のように敏感に即座に時間差もなく流出するでしょうが、決して機械的、自動的、無意味ではないでしょう。しかし『私の力が出ていくのを感じた』とイエス様は言われます。これはただごとではないお言葉です。ここに、イエス様の愛の本質が見える気がします。

 

イエス様はいつも与えよう与えようとしておられるということです。イエス様の愛は器一杯にあふれんばかりに満ち満ちていて、惜しみなく与えられるのです。

ただし無条件ではない、イエス様の愛は無償ですが、無条件ではありません。

えっ、それって、変ではありませんか、イエス様は無条件でどんな人をも受け入れ、ゆるし、愛し、恵みをふんだんに与えてくださるのではないのですか、条件付きの愛だなんてきいたことがありませんと反論なさいますか。大いに反論して、そして考えてみましょう。

 

たしかにそのとおりです、でもその場合の無条件とはなにを指すのでしょう。

イエス様の愛はもちろん無料、無代価です。イエス様は投げ売りでもするように、在庫整理のバーゲン品のように道ばたに山のように愛を積み上げて、どなたでもご自由に必要なだけ持って行きなさいと立て札を立て、声をからして叫んでおられるのです。来る人をじっと辛抱強く待っていてくださいます。また、ある時は一軒一軒訪問して、愛の配達に出かけます。愛の宅配です。すでに代価を支払ったから、ただでいいのだよと言われます。どんな人にもそれこそ無条件で無代価で与えようとしておられます。

 

でも、たったひとつ、イエス様が要求なさることがあるのです。何でしょう。ここがまちがいやすい、考え違いをしやすい微妙なところだと思います。

イエス様がたった一つ要求なさること、それは、ほしいのです、ぜひくださいとの意志表示です。差しだされる手です、心です、魂です。ほんとうにほしいのでぜひくださいとハッキリと意志を表明するのを待っておられるのです。いらない人にまでくださらないです。むりやりに持たせるようなことはなさいません。丈夫な人に医者はいらないのです。価値のわからない人にも不要です。豚に真珠は与えないのです。そのかわり求める者に、探す人に、見つけようと訪ねる人なら、だれにでも無条件、無償でくださるのです。

 

ここを決してまちがってはいけないと思います。イエス様の愛はいつも全開しています。さわるかさわらないうちに水を出すあの蛇口にも似て、与えよう与えようと、イエス様のお体はそうした構造になっているのです。与える愛そのものがイエス様です。信仰の手を伸ばしてタッチすれば、惜しみなく与えられるのです。いちいち面接して、内容や状況を説明しなくても、ほとんど即座に一番必要なものが水のように流れ出るのです。『私の力が出ていった』と言う一言からそんなことが考えられないでしょうか。

 つづく


  • 2009.09.20 Sunday - 16:06

無名の賢女たち その6『長血を患った女性』

 

女性は背後から近づくと、イエス様の足元にぬかづき、おそるおそるほんの一瞬さわったのではないでしょうか。夢中でさわって、触れるか触れないか程度に、それでもさわって、恐ろしくなって後ずさったのではないでしょうか。もしも敏感なイエス様に感づかれたらどうしよう、できることなら一目散に駆けだして姿をかくしてしまいたいと思ったに違いありません。

 

ところが、女性はハッとしました。身体の変化に気がつきます。今の今まで、一瞬前までの十二年間、来る日も来る日も止むことのなかった出血がピタリと止まってしまったのです。女性は一瞬にして理解しました。その癒しは実にハッキリとしたものでした。鮮やかなものでした。みごとなものでした。女性は黙って立ち去るわけにはいかなかったのです。

 

そのとき、声が聞こえました。

 『私にさわったのはだれですか』とのイエス様のお声が。

 女性はどんなに驚いたことでしょう。すぐには返事などできません。ただ震えていたのではないでしょうか。自分がとんでもない悪いことをしてしまった、犯人のように思えたことでしょう。その一方で、直ってしまったことを思うとうれしくてうれしくて、心がぐんぐん強くなっていったでしょう。さわったのは私ですと言わなければならない、そう思いながらも、現実にはまだ言葉に出せません。

 

その時すぐそばから大きな太い男の声がしました。

 「先生。こんなに大ぜいの人たちが、ひしめき合って押しているのです」その声はペテロです。だれがさわったなどと言う方がおかしい、さわって当たり前というところでしょう。言わずにはおれない本音です。ペテロは焦っていたのでしょう。ヤイロが青い顔をしてそばにいるのです。一刻も早く行かなければ娘が死んでしまうと訴えているのです。押し寄せる群衆に遮られて思うように進めないので、いい加減腹立たしく思っている最中です。

 だれかが私にさわったとイエス様が歩みをとめて周辺を見回しておられる。こんなことでよけいな時間はとりたくない。イエス様ものんきすぎるのではないかなどと、ペテロの思考を辿ると、彼の思いも気持にも共感してしまいます。

 

ところがイエス様は意外なことを言われます。

『だれかがわたしにさわったのです。わたしから力が出ていくのを感じたのだから』

 これはどういう意味でしょう。イエス様の感覚は人間の何百倍も敏感だから、こんなことを感じたのでしょうか。そんな物理的なことだけではないでしょう。イエス様はこう言いたいのです。

 混雑のせいでさわったのだったら、無意識のさわりかたであったのなら、私の力は出ていかないのだ。ところが力が出ていくようなさわり方をした者がいる。私だと知って、私にさわりたくて、意識を持って、さわろうとして、さわった者がいる。願いを込めて、欲求を持って、祈りを持って、力を求めてさわった者がいると言うことではないでしょうか。イエス様はさわった人に関心があるのです。さわった人の心境やその境遇、つまりその人の人生に、生き方に、心を寄せておられるのです。

 もちろんイエス様はとっくにだれがさわったのか、何にためにさわったのか、どんな境遇にいた人なのかご存じのはずです。

 

サマリヤの井戸端でイエス様と水問答をした女性のことを思い出します。イエス様はあのサマリヤの女性とは、そのときほんの行きずりに出会っただけですが、女性の過去、現在をすべて知っておられました。そのようにイエス様は調べる先からすべてご存じのはずです。ではなぜあえて探したのでしょうか、そのことはひとまず置いておきまして、次ぎにもうひとつ考えたいことがあります。(つづく)

 

 

 


  • 2009.09.14 Monday - 20:22

無名の賢女たち その5『長血を患った女性』

 

 

 イエスの着物にふれて

 その時イエス様は群衆に進路を阻まれながらも、ヤイロの家に向かっていました。

 ヤイロは会堂つかさ、会堂管理者と記されています。会堂とはシナゴーグと呼ばれユダヤの各町々に置かれた集会場、いわば公民館のような役割をした場所だったようです。その中心的な活動は宗教行事で、安息日や祭りの日に律法を朗読し、祈りを捧げ、メッセージが語られたところです。後の教会とも言える場所です。

 

ヤイロはその場所を管理していたのですから、村の上層に位置する人、一般の人からは一目置かれる立場のある人と考えられます。イエス様もよく会堂に入って律法の書、トーラーを朗読し、メッセージをなさっています。ここはカペナウムの町ですから、ヤイロとは面識があったのかも知れません。会堂管理者の中にはイエス様に反対する人もいましたが、ヤイロはそうではなかったようです。信頼していたからこそ、娘の病の癒しのために祈りを依頼してきたのでしょう。イエス様もその申し出を快く承諾したようです。娘は危篤状態でした。イエス様はそのこともすでにご承知だったのです。ヤイロが必死になっているのも知っておられました。

 

そのような切迫した状況の時に、そんなこととは露ほども知らないこの女性は、ヤイロと同じように必死の思いで群衆の中に紛れ込み、ついについにイエス様のそば近くにまで忍び寄り、イエス様の着物、それも、すそについているふさにさわりました。いちばん差し障りの無い部分にそっとさわったのです。

 

なぜ、すそのふさなのでしょうか。この女性はイエス様にお願いしようと決心したものの、その方法まで考えたでしょうか。単純に考えれば、直接お会いして、自分の口から今までのいきさつをすべてお話しし、どうかお願いしますと頭を下げる、あるいはひれ伏して嘆願するという形が順当でしょう。でもこの女性はそうしなかった。イエス様の着物のすそにさわったのです。女性は『お着物にさわりさえすればきっとなおると思ったから、そうしました』と説明しています。

 

女性は最初は顔と顔を合わせてお願いしようと思ったに違いありません。しかし病が病です。この国では古くから血の病を持ったものは汚れていると言われて来たのです。女性も自分は汚れている、汚れていると、悲しいけれどそう思っていたでしょう。現在でも伝染性のある病気にかかった場合、法定伝染病でしたら隔離病棟に収容されます。インフルエンザでも警戒しますし、昨今は新型インフルエンザ世界中が神経を尖らせています。

 

病の人には近づきたくありませんが、病の人も、人にうつしたらたいへんと、用心します。そんな考え方を延長させますと、この女性は汚れた自分がイエス様の前にまともに出られるわけがないと考えたのでしょう。また、自分の汚れによってイエス様を汚してしまったらそれそこ申し訳ないと考えたのでしょう。そして考えに考えた末、そうだ、たとえお言葉をいただかなくとも、祈っていただかなくても、触れていただかなくとも、おそばに近づいて着物のいちばんすそ、ふさの部分にさわらせていただくだけできっと直るだろう、そうさせていただこうと決めたのではないでしょうか。

 そしてそのとおりにしたのです。(つづく)

 


  • 2009.09.09 Wednesday - 21:40

無名の賢女たち その4『長血を患った女性』

 

その女性の耳に、イエス様の噂が聞こえてきました。

 カペナウム界隈でイエス様のなさった事柄をあげると、らい病人を癒したこと、ローマの百人隊長のしもべを癒したこと、ペテロの姑の熱病を癒したこと、悪例に憑かれたおおぜいの人の癒し、ガリラヤ湖の嵐を鎮めたこと、中風の人の癒しなどがあり、それらが人の口から耳へ、耳から口へと伝えられていきました。この女性の耳にも届いたことは容易に想像できます。この女性は何も問題のない人とは比較にならないほど特別な思いでイエス様の噂を聞いたことでしょう。特に病気が癒された話には全身を耳にして聞き入ったことでしょう。

 

そして女性は思うのです。

 私の病気だって、そのイエスとやらなら直せないことはないはずだ。直せるにちがいない。ぜひ直してもらいたいものだ、そうだ、お願いしてみよう。会いに行ってお頼みしてみよう。 

 

しかし、ここまで決心するのにもすんなりとはいかなかったでしょう。なにしろ十二年間一度もいいことがなかったのす。すっかり希望をなくしてしまっていました。あきらきっていました。半分自暴自棄になっていたかもしれません。新しいことを試みようとすると今までの悲しい過去が一度に甦ってきます。診察を受けた医者たちや挑戦してみた治療法などがどっと思い出されます。あの時も駄目だった、あの時は遠くまで出かけたけれど、だめだった。あの時も、あの時もと。

 

そのたびに、出会った人達の顔が浮かび、苦い苦い経験が思い出されたことでしょう。何をしても駄目だった、だからおそらくイエスという人だってと、初めの何回かは耳を塞ぎ心を閉じて無視し、拒否したことでしょう。

 

しかしイエス様の噂はこれでもかこれでもかと、くり返しくり返し聞こえてくる、まるで噂の奇跡がぜんぶ自分をイエス様へ振り向かせるための招きのように感じられてくる。そして、まだ信じないのか、これだけの確かな証拠を聞いてもまだ信じられないのか、あなたもいくのです、信じて出かけるのです、さあ、さあ、いつまでぐずぐずしているのです、チャンスというものは、そうそう何度もあるものではありません。これを逃したら、永遠に、ほんとうに今度こそ望みはありませんよと、そんな声まで聞こえてくる。

 

こうなりますと、あとは自分との戦いだけです。心の問題です。長血の女性はそうした烈しい葛藤の末にようやく重い重い腰を上げたにちがいありません。

 この人に賭けてみよう、きっと直していただける。いや直していただくのだ。

 

イエス様、直してください。

 決心は願いになり、願いは懇願になり、さらに祈りに変わっていったのではないでしょうか。そうして、ようやく決心したものの、一歩外へ出れば、現実問題が飛び込んできます、世間の目です、自分との戦いに勝利しても、もうひとつの手強い敵、外側との戦いが待っています。世間の目というやっかいな敵がいるのです。この十二年の間、どれほどのはずかしめを受けたことでしょう。それらがまた恐怖となって襲ってきます。

 

火の柱と氷の柱を前に後ろにくくりつけたような思いで、女性はイエス様がおおぜいの群衆に囲まれてもみくちゃにされながらやってくるのを確かめると、さっとその波に紛れ込み、イエス様に近づきます。(つづく)

 

 


  • 2009.09.06 Sunday - 15:12

無名の賢女たち その3『長血を患った女性』

 

 

この女性について三福音書の記事を総合してみますと、

 十二年間もひとつの病気に取り憑かれ悩み苦しんでいました。長血という病気で、これは体に現れる症状からそのように呼ばれたのでしょう。出血が止まらないということでしょう。今の医学から判断しますと子宮筋腫など婦人科系の病のようです。今ならいろいろと治療の方法があり、なによりも病気についての知識があるはずです。

 

 ところが、この女性の苦しみは病がなおらないと言うだけのことではありませんでした。旧約の時代からですが、出血する女性は汚れていると社会的に烙印を押され、正常な社会生活ができませんでした、らい病ほどではなかったにしても、隔離状態で生きねばなりませんでした。この女性はあらゆる医者、方法を試みて直そうと努力したようです。そのために全財産を使い果たしてしまいました。それでも直らずかえってひどくなる一方でした。なんと惨めであわれでしょう。現代でも難病と呼ばれる病気が数多くあります。決定的な治療法がありません。医学者たちは日夜研究しているのでしょうが、まだその段階でない病気です。民間療法などでこれが良いと聞くと大金を使ってでも実行します。あれがよいと行くと飛んでいきます。日本にないと海外から取り寄せたり、外国に治療に行く人さえいます。不治と言われる病をかかえている方はほんとうにお気の毒です。

 

今は病に対する差別や偏見がずいぶん改善されましたが、それでも慢性病はなにかと苦しい立場に置かれます。そしてなによりもやっかいなことは、不治の病をかかえていると、その人自身の心が正常でなくなります。暗い気持になり、不安になります。自分の将来はどうなるのだろうと考え出すと明日への喜びや期待、希望など、持ちたくてもとても持てません。これは病の苦しみ以上に耐えがたい苦しみです。

 

この女性は十二年間苦しんできました。おそらく結婚適齢期と重なったことでしょう。このままでは一生結婚はできないのではないか、もちろん子どもも産めないだろう。このまま死ぬでもなく生きるでもなく、半分死んだような有様でいつまで生きていくのか、いっそ死んでしまいたいなどと、何年も何年も苦しみ続けたことでしょう。しかし一方で、どこかに希望の綱をつないで、なにか良い方法があり、直る日もあるだろうと、暗闇の中に一条の光を探すこともあったでしょう。(つづく)

 

 


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