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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2008.06.06 Friday - 12:45

聖書ウオーキング ヨハネの黙示録 終回

ヨハネの黙示録 その3

天国とはどんなところであろうか。みころばをみるのみである。

21章3,4節
『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである』

23節
『都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである』

人はどうあっても必ず死ぬ。どんなに健康でも死を免れることはできない。ことあるごとに死後の世界の有無について論じ続けている。死後が心配だからこそではないか。神さまは人に、永遠を思う思いを与えられた。

天国の存在を信じることができて幸いだと思う。そこに入れる恵みに大いに喜ぶ。単なる現実逃避ではない。御国ほど慕わしいところはない。最大の理由は、愛する主イエス・キリストに直にお会いできるからである。主とともに永遠に生活できるからである。

主は言われる。22章12節〜14節
『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。… 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである』

聖書には希望の風が軽やかに、涼やかに、絶え間なく、そよいでいる。神の用意してくださった新天新地、天国では、もう希望の風はいらない。希望の風の実体であるイエス・キリストがおられるのだから。

この地上で生かされる限り、希望の風なるお方を慕い求め、そのそよぎを喜び楽しみ、天に帰る日を最大の望みとしたいものである。

ここまでの参考図書
『新改訳聖書第3版』 いのちのことば社
『文語訳聖書』 日本聖書協会
 『チェーン式聖書』 いのちのことば社 
 『実用聖書註解』 いのちのことば社
 


 以上で旧新約聖書66巻の聖書ウオーキングを終了します。創世記から黙示録まで、長い道のりをおつき合いくださりありがとうございました。

聖書の魅力は、生涯読み続け、研究し続けてもゴールはないでしょう。ですから、また、違った視点で探り続けていきたいと思います。続いて『聖書の緑風』をお訪ねください。感謝を込めて。

  • 2008.06.04 Wednesday - 14:09

聖書ウオーキング 黙示録その2

ヨハネの黙示録 その2

ヨハネは迫害されて地中海の孤島に流されたが、決して失望落胆したわけではなかった。同じように迫害されているアジアの諸教会を励まし、堅く信仰に立つようにと、この手紙を送ったからである。

ヨハネの信仰はますます強まり、イエス・キリストへの愛はいっそう高まったのではないだろうか。1章から3章までは7つの教会宛てであるが、私たちの教会へ、いや、私個人に宛てて書かれたように鋭く心に食い込んでくる。説教にもよく引用される有名なみことばがたくさんある。

1章8節
『神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」

2章4,5節
『しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい』

2章10節
『死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう』

3章15、16節
『あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう』

3章20節
『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする』

ヨハネの黙示録は難しいのだけれど、みことばの一つ一つは旬の食材のように、みずみずしくておいしい。もりもり食べると、健康増進、体力増強まちがいなしである。

4章から20章までは、天上のことやサタンとの戦い、最後の審判など未来のことなので、十分には理解できないが信じて読み進むことにしている。神さまの完全勝利にはハレルヤと賛美の声をあげ、最後の審判では粛然として襟を正される。

  • 2008.06.02 Monday - 15:30

聖書ウオーキング ヨハネの黙示録 その1

ヨハネの黙示録 その1 聖書最大の希望 

難解の一言に尽きる黙示録。人間にとっていちばん苦手な未来のことが大半を占めているからであろう。人間は未来を知ることに弱い。いちばんよく知っているはずの自分のことでさえ、明日のことはわからない。いや、今日一日の自分のことがわからない。どんなところで喜び、どんなところで怒り、何を言ってしまうか、何を考えてしまうか、予測が付かない。神さまは何でも与えてくださる気前のよいお方であるが、未来を知る力だけはくださらなかった。

黙示録に記されている未来の預言は、ただ受け入れ、信じればよいのだ。神さまを信頼すれば、ああ、そうですかと受諾できる。黙示録は神さまへの信頼度を養う最良のワークブックだと思う。今ごろようやくそのように思えるようになった。

今は天に凱旋された偉大な伝道者がこう言われた。
「黙示録を読むと祝福されます。1章3節に『この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである』と書いてありますから」と。

その時から黙示録を読む態度が一変した。朗読するとあるので時に声を出して読んでみる。ゆっくり朗読してみると、天上の光景などの箇所では、自分なりにシーンを描くことができる。そこにこの世では見られない不思議な明るさと、この世では吹くことのない穏やかな希望の風を感じる。これが祝福の一つかと思う。

この書の著者ヨハネは、このときローマ皇帝の迫害に遭い、地中海にあるパトモスという小さな無人島に流されていた。この書は極度の危険と孤独のどん底で生まれた。

1章9節
『私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた』

  • 2008.05.30 Friday - 07:52

聖書ウオーキング ユダの手紙

ユダの手紙は小さな小さな書物である。膨大な旧新約聖書のなかでは目立たず、教会でもめったに開かれない。他の書はたいていほどよくいくつかの章に区切られ、章の中にさらに節がある。ところがユダ書には章がない。節が打たれているのみである。

ユダ書の筆者はユダである。初代教会のリーダー格であったユダが、各地にいる信徒たちを心配して、親か老教師のような心境で書き送ったのではないかと思える。文面にはそうした雰囲気が漂っている。

ユダは、イエス・キリストの肉親(この言葉は厳密には適切でない)の兄弟であるといわれる。兄弟と言えば、ヤコブ書のヤコブもそうである。イエス様の兄弟から2人もクリスチャンが出て、しかも彼らはイエス・キリスト亡きあと、教会に属し、立派な信仰に生きた。

イエス様が宣教に立ち上がった当初、家族は協力的ではなかった。むしろ冷ややかであり、後ろ向きであった。おそらく、肉親という厄介なアイマスクに魂の両眼を遮蔽されて、救い主としてのイエス様を見ることができなかったのだろう。

ユダはどのようにして兄弟イエスを救い主イエスとして理解し信じるようになったのだろうか。その転換点に興味が沸いてくる。ユダはこの書の中でなんども、主イエス・キリストと記している。イエスを主と呼べるのは並のことではできない。これこそが神秘の世界、聖霊のお働きであることは瞭然としている。

イエス・キリストを歴史上の偉人、聖人としてではなく、私の救い主として受け入れ崇める人が多く起こされることをひたすら祈り願う。

20節から21節
『しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい』

  • 2008.05.26 Monday - 21:39

聖書ウオーキング ペテロの手紙第一、第二 その3

ペテロの手紙第一、第二 その3 偉大な使徒になったペテロ 

イエス・キリストの愛によって、聖霊の力によって、神さまのみこころによって、弱さや不信仰や絶望や自己嫌悪などのあらゆるマイナス状況から、真の悔い改めに導かれたペテロは、新しい人にされて、伝道の第一線に立った。その名のように岩になって。

この手紙は現在のトルコ中央部から北部に散在していた信者たちに宛てたもので、その時ペテロはローマにいた。AD63年ごろらしい。64年以降にローマではあの悪名高い暴君ネロの迫害がはじまり、ペテロは悔しくも殉教したのだ。

この手紙は、異教社会に吹き荒れる試練の嵐の中にいる信者たちを励ますために書かれた。ペテロはイエス・キリストの苦難を通して励ましを与えた。

第一・2章22節〜24節
『キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです』

少し長い引用だが、ひと言も省くことはできない。読むたびに、涙があふれ出る。涙のなかに、自分の苦難が小さくしぼんで見えてくる。何度このみことばで立ち上がらせていただいたことか。

パウロの手紙のまえには黙さざるを得ないことばかりだが、ペテロのでは、むしろおしゃべりがしたくなるから不思議だ。ペテロの庶民性のゆえだろうか。肉親の兄のように思えてくる。                   

思えば、イエス様は人を見抜き、適材適所に人を使う達人である。いや、イエス様は人を生まれ変わらせて育てる魂の親であり教育者なのだ。

  • 2008.05.24 Saturday - 07:37

聖書ウオーキング  ペテロの手紙第一,第二 その2

4つの福音書のペテロと、この手紙を書いたペテロとの間にもうひとつ、ペテロたびたび登場する文書がある。『使徒の働き』である。ここではイエスの弟子たちとパウロが活躍する。前半の部分、パウロの名が見えてくるまでは、ペテロが主人公である。

使徒の働き2章にはペテロの一大説教が記されている。危険極まる都エルサレムのど真ん中で、ペテロはイエス・キリストこそ待望のメシヤであると力説し、そのメシヤを殺したのは他でもないあなたたちユダヤ人だと糾弾する。そのペテロには一ヶ月前にイエスを裏切り、逃げ隠れした姿は微塵も見られない。死をも恐れない信仰の人、炎の人、偉大なペテロが燦然と屹立している。

立ち上がって説教を始めたペテロはその直前にあることを経験した。イエス・キリストの心ともいうべき聖霊が、弟子たち一人一人の上に降ったのである。彼らは祈っているときに一様に激しく魂を揺すり動かされ、その結果、不安や臆病心は雲散霧消し、新しく、平安と喜びと勇気に燃やされたのである。イエス・キリストへの愛が全身を貫いた。その霊の勢いと愛がペテロを初め弟子たちを別人にした。

ここに、人が変われる鍵があると信じる。イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの愛を知り、自らも愛し、ひたすらに彼の道を歩んでいるそのプロセスで、人は様変わりしていく。時に劇的に神(聖霊)にタッチされ、変身(心)することもあるときく。
理由がある。神は私たちを造られた作者だから、作品を修正したり補修できるのである。作品自身が自分を直すことなどできないではないか。

ペテロは偉大なリーダーになった。力ある説教をし、人々を指導し、教会を組織運営し、何よりも命がけでイエス・キリストを愛し、殉教した。十字架刑は、自ら申し出て逆さにはりつけられたという。キリスト教2000年の歴史で、偉人中の偉人になった。

神の愛と力がこれほどまでに具体的な働きをするのかと驚嘆する。その力、聖霊は今も変わりなく働いている。聖霊は希望の風そのものである。

  • 2008.05.22 Thursday - 13:02

聖書ウオーキング ペテロの手紙第一、第二 その1

飽田縦貫


ペテロの手紙第一(5章)第二(3章)人は変われるのか その1

この2つの手紙を書いたペテロは4つの福音書によく登場するガリラヤ湖の漁師ペテロである。イエス・キリストの直弟子12人の筆頭に立つ人である。おそらく最年長でもあったのだろう。

福音書で見る限り、ペテロは人間としても、信仰の面でも、不完全を丸出しにしている。イエス・キリストの一大事のとき役に立たなかった。イエス・キリストがゲッセマネの園で血の汗を流して祈っていたとき、すぐそばで居眠りをしていたし、イエス・キリストが官憲に逮捕され、大祭司の屋敷に連れ込まれて尋問されていたとき、周囲の者たちに、イエスなど知らない、無関係だと三度も言い張った。イエスにもっと愛され信頼されていたのに裏切ってしまったのだ。故意でも計画的でもなくただ弱さのゆえに、である。そこにかすかな救いを感じるが、不始末の現実は重い。

そのペテロが、このりっぱな手紙の著者なのである。とても同一人物だとは思えない。人間ここまで変われるものなのか。手紙の内容を云々する前に、福音書のペテロと手紙のペテロを並べてとくと見ずにいられない。その変わり方にひどく興味をそそられる。

人はだれでも自分自身をもてあましている。自分ほど厄介な隣人はいない。若いころは、何とかして理想の人物像に仕立て上げたくて、もがいた。それなりの努力もしてみた。しかし、ものが見えて来るに従ってますますお粗末な自己の真相が見えてきた。分かったことは自力では不可能だということだった。

しかし、ペテロはみごとに変わった。いつ、どこで、なにによってか。聖書にはその答えがあるはずだ。

  • 2008.05.17 Saturday - 09:22

聖書ウオーキング  ヤコブの手紙

ヤコブの手紙(5章) 信仰か行いか

このヤコブ、前回のペテロ、次のヨハネとユダの手紙をまとめて公同書簡と呼ぶ。宛先が特定の教会や個人ではなく、より広い教会を対象としているからである。

この手紙の差出人ヤコブはどうやらイエス・キリストと一つ屋根の下に暮らした家族、つまり実の弟である。もっとも、厳密に言えばイエス・キリストはマリヤが聖霊によって受胎した神の御子であるから、ヤコブとは血のつながりはない。

ヤコブはイエス・キリストご存命中は弟子たちの中にいなかったようだ。最も親しい兄
弟でありながら、イエス・キリストを救い主とは信じなかったのである。そしてそれは特別なことではない。ありがちなことである。イエス様はあるとき「預言者が尊敬されないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけです」と嘆いたが、神の御子でさえそうであった。

ヤコブがいつどのようなことから弟子たちの中に入っていったのか不明だが、初代のエルサレム教会ではトップリーダーになっていた。使徒の働き15章のエルサレム会議の様子から彼が重要なポストにいたことは明らかである。

ヤコブの手紙は信仰の実践面、つまり良い行いを強調している。行いのともなわない信仰は死んだものだと歯に衣着せずに断言する。口先だけの信仰が横行していたのだろう。それは今の世も変わらない。もちろんさも信仰深げな見せかけの行いは唾棄すべきものだ。

バランスの問題だろうが、ヤコブの辛口は時に小気味よい。そう言う私はどっちを重視しているのだろう。自己吟味の尺度として、ヤコブのはかりも使いたい。

1章22節
『みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません』

  • 2008.05.13 Tuesday - 21:39

聖書ウオーキング  ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙(13章)信仰者の視線の向けどころ

差出人も分からず宛先もはっきりしない文書を手紙と呼べるだろうか。本書はその点ではちょっとミステリアスな手紙である。それだけに人の好奇心や想像力を刺激してきたらしい。

差出人にはパウロを始め新約聖書に顔の見える多くの人が候補にあげられている。だが決め手はない。宛先はおよそパレスチナ以外のユダヤ人だと言われている。

内容もかなり難しい。とくに前のピレモンへの手紙の余韻が残っていると、とまどってしまう。しかし読み進むうちに、大祭司としてのイエス・キリストがはっきり見えてきて、厳粛な思いになる。神様の御前で取りなしのご労をとってくださるイエス様に非常な親しみを覚える。

ふと、ピレモンの文が思い出され、オネシモをとりなすパウロがこの手紙のイエス様と重なってくる。

また、この手紙から信仰とはなにかが鮮やかに見えてくる。

『信仰がなくては神に喜ばれることはできません』の一節には忘れられない思い出がある。日本が生んだ世界的な大伝道者本田弘慈師が、ことあるごとに叫ぶようにまた噛んで含めるように用いておられた。いまでも耳の底から先生の声が響いてくる。 

特に11章、12章は信仰街道の頼もしいエンジンとなってくれる。弱くなったとき、疲れたとき、失意に陥ったとき、希望の風を感じなくなったとき、力になる箇所である。

『信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストから目を離さないでいなさい』を読むと、視線の向けどころが間違っているのに気付き、正される。

イエス様から目をそらすから、不満や不平や失望落胆に取り付かれてしまうのだ。イエス様だけを見ていたら、微笑むイエス様に微笑み返さずにはいられないではないか。ああ、信仰とはこのことなのだと、わかってくる。
難しいようでやさしいヘブル人への手紙が私はとても気に入っている。

  • 2008.05.08 Thursday - 21:48

聖書ウオーキング ピレモンへの手紙

ピレモンへの手紙 キリストの愛と赦しのサンプル

牧会書簡とよばれる4つのうちの最後である。この手紙は他の3つとはまったく色合いが違って非常に私的である。パウロは親しい友ピレモンに、彼の奴隷オネシモの罪を赦し彼を受け入れて欲しいと懇願している。ピレモンはパウロによってキリストの救いに導かれたコロサイの人である。

オネシモはピレモンの奴隷であったが、盗みをしてローマに逃亡した。その彼が神さまの不思議な導きでパウロに出会い、回心した。パウロはオネシモを主人であるピレモンに送り返すに当ってこの手紙を書いたのだ。オネシモの負債は自分が償うから、赦してやってほしいとつよく訴えている。

パウロは次のように書き綴っている。
『彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください』

これを読んでいると、イエス・キリストが神様のみ前で、私のために弁護しているお姿が彷彿としてくる。かつて私は主人である神さまを足蹴にして罪の世ローマを闊歩していた。ところがイエス・キリストがわざわざ探しにきてくださって、私の罪の代わりに御自分の命を差し出して償い、無罪の者として神さまの元に送還してくださったのだ。

神さまの元には、私たち一人一人のために書き送られたイエスさまのこのような手紙が大切に保管されているのではないだろうか。やがて神様のみ前に立つとき、読み上げられるであろう。特に、次の一文が読まれたときは、泣き崩れるであろう。

『もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。私を迎えるように彼を迎えてやってください』

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