会津若松の火炎 *若松賤子の生涯* その7

*賤子、洗礼を受ける

 

 キダーは、初期の学校の時も、寄宿学校になってからも一貫して生徒たちに英語を使ってキリスト教を教え続けた。生活もキリスト教の実践の場であった。キダーは単なる教育者ではなかった。もともとキリスト教の宣教師である。第一の使命はキリストの福音を伝え、クリスチャンを生み出すことであった。結婚したミラー氏はもちろん宣教師である。

 

キダーは日曜日には教会で日曜学校を担当し、そこへは最初から生徒たちも参加した。賤子ももちろん喜んで日曜学校に通い、しばしば手伝いもした。

 

 明治六年(一八七三年)明治政府は徳川幕府以来のままであったキリスト教禁止の高札を撤廃した。ここにキリスト教は二六〇余年を経て、晴れて禁を解かれたのである。信仰の自由が公に認められたのである。もっとも禁教時代から、多くの宣教師たちは危険を冒して來日していたが、横浜へはアメリカからプロテスタントの宣教師たちが来ていた。彼らはいよいよ大手を振って伝道活動できるようになったのである。もちろんまだ民衆の間の偏見はひどく、「耶蘇」といって避けられ嫌われてはいたが、公に捕縛されることはなくなった。

 

 明治八年には横浜海岸教会が建てられた。これこそ日本初のプロテスタント教会である。フェリスからは五名の女子たちが堂々と洗礼を受けた。日本の女性クリスチャン第一号奥野ひさは、賤子と同じように戊辰戦争の犠牲者であった。父の奥野昌綱は上野彰義隊に属し、戦いに敗れた後、新政府軍に追われた。やがて横浜でヘボン博士の日本語教師になり施療院の二階に住んだ。その一室がキダーさんの学校として使われ、賤子が入学した場所である。奥野はその後、ジェームス・バラの説教に感動して、ブラウン博士から洗礼を受け日本初の牧師になった。

 

 賤子の周辺は当然であるがキリスト教一色であった。いつも賛美歌が聞こえ、また歌い、聖書が読まれ、教えが説かれ、祈りがあった。賤子はキリスト教づくめの生活に違和感はなかった。むしろ喜んでその雰囲気に浸り、ごく自然に福音を受け入れた。賛美歌を歌うと心が弾んだ。聖書の物語に胸が躍った。祈りは平安と力を与えてくれた。何よりもキダーの実践愛を通して、生きて働く神の存在が分かり、イエス・キリストの贖いの愛に心満たされた。

 

 明治一〇年、一三歳の賤子は横浜海岸教会でキダ―の夫、ミラー牧師から洗礼を受けた。フェリスの生徒数名といっしょであったが、そのうちの一人はのちに植村正久夫人になる山内季野(すえの)である。二人は間もなく日曜学校で熱心に奉仕するようになった。

「スエコとカシは熱心な主の働き手です。彼女たちは日曜学校を作りました」

 キダーは本国への手紙に二人のことを書いている。カシとは当時の賤子の通称大川甲子(かし)のことである。のちに戸籍上の正式名「島田嘉志子」になる。

 

 洗礼を受けたことは、賤子の内面を強くし、自分というものに眼覚めさせ、自信をつけさせる大きな力になった。心よりさらに奥にあるいのちの根源である魂が輝きだした。思春期に入った賤子には最適なタイミングであった。賤子が信仰から直接に大きな確信を得たのは「新生」の教えであった。「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」聖霊によって生まれた者は「今や神の子である」。賤子は、今までの古い自分は死んで、今は、ひとえに恩寵による「神の子」にされたことを誇らしく思い喜びにあふれ浸った。絶えず神を求め、神との交わりを渇仰した。

 

 信仰の確信は賤子の人格を変えていった。人前で、物おじせず自分の意見が言えるようになった。英語で話すことが楽しくてならなかった。恥ずかしさが消えると発音も上達した。瞳に光が増して、顔全体が明るくなった。生来、色白の上に血色が悪く生気がなかったが別人のように美しくなった。賤子は会津から横浜の甚兵衛夫婦に貰われ慈しんで育てられたにもかかわらずいつもどこかで自分は孤児だという物悲しい卑屈な思いの中にくすぶっていた。そのぶん、養父母にもなつかず、気難しく意固地で手にあまる子であった。

「おかしさん、このごろとてもげんきになったわね」

「美しくもおなりだわ。お人が変わったみたい」

「先生の一番のお気に入りだし、おかしさんはきっと偉い人になるわ」

 先輩も後輩も賤子を注目し、特別な才能があることを認めていた。

 

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会津若松の火炎 *若松賤子の生涯* その6

  *再び横浜へ・「寄宿学校」生活

 

 明治八年、一一歳の賤子は約三年の月日を経て横浜へ帰って行った。大川家全員ではない。賤子一人だった。賤子は家族と別れて、懐かしいキダーさんの学校へ、そうではなく、校舎も場所も名前も新しくなった寄宿制の『フェリス・セミナリー』へ再入学した。賤子の記憶にあるキダーさんの学校はヘボン施療院の二階の部屋であった。野毛山に移ってからはほとんど通っていない。学校移転と同時に賤子も東京へ転居したからである。                                                            

 

 賤子が横浜を去ってからもキダーさんの学校は生徒が増え続けた。キダーはいよいよ自分の使命が女子教育にあることを確信し、本国の伝道協会に念願の寄宿学校の建設を訴えた。やがて資金が調達され、日本政府から借りた千坪余りの土地に総工費五千ドルの校舎と寄宿学校が出来上がった。新しい学校は港を見下ろす横浜の山手にあった。キダーが来日して七年目に実現したのである。開校式は明治八年六月一日に行われた。

 

 賤子が東京で満たされない思いで過ごした日々の間に、横浜では海を隔てたアメリカからの祈りと援助によって想像もできない立派な学校が作られていたのだ。まるで賤子の復帰を待っていたかのようだった。横浜を離れる時は死の地へいくような暗い気持ちだったが、今や夢の国へ迎えられた思いだった。賤子の心の火は再び高く燃え上がった 最初の生徒は一四人であった。全員がそれまでのキダーさんの学校の生徒であった。

 

 もう一つ驚いたことがあった。キダー先生が結婚したことであった。

 先生の胸に飛び込んでいこうとしたとき、そばで声がして、先生が振り向いた。

「ミセス・ミラー!」

 賤子ははっとした。聞き違いをしたのかと、一瞬ひるんだ。

「驚きましたか、わたし、結婚して、ミセス・ミラーになりました。賤子、ようこそ」

 キダー先生は初めて会った時と同じようににこやかに語りかけ、両手を大きく広げ身をかがめて賤子を抱きよせた。横浜を去ったその時から一日も忘れたことのないそのままのキダー先生だった。伝わってくる柔らかな胸の温かさも変わっていなかった。賤子は顔をうずめると肩を震わせて泣いた。先生はこの三年間、賤子がどんな境遇にいたか知るはずもなかったであろう。賤子もこうしているとブランクの日々が消えて昨日の続きのように思えた。東京が急に小さくかすんでいった。

 

「賤子、私の夫、ミスター・ミラーです」

 先生のかたわらにそびえるように大きな男性が立った。賤子は思わずうつむいて後ずさりした。動悸が激しく打ち、顔がほてった。ミスターはちょっと困ったように肩をすくめて両手を腰のあたりで広げた。賤子は気を取り直して、右手を差し出した。言葉は出なかった。ミスターは待ちかねたように賤子の手を握った。大きくて厚くてちょっと硬くて温かい手であった。笑顔がこぼれていた。

 

賤子は、結婚とか私の夫というような言葉は生まれてこの方聞いたことがなかったし、二人が寄り添ってお互いに笑みを交わすのにいたっては卒倒しそうに驚いた。そして呆然とみとれた。賤子の目にはこの世のものとは思えないほど美しく映った。大人と同じように何の隔てもなく結婚を告げ配偶者を紹介されたことで、自分が急に大人になったような心地よさと誇りを感じた。同時に背中に一本、新しい芯が入ったような爽快な思いがした。

 

 ほかにも驚くことがあった。キダー先生がミスター・ミラーと時々強い口調で言い合っているのだ。喧嘩をしているのかとドキドキする。内容が分からないせいもあるが、二人は真剣に議論しているのであった。そんな夫婦の姿も賤子は見たことがなかった。キダーは堂々と自分の意見を言い、ミスターも言い、しばらくすると二人は手を取り合って笑顔になるのだ。賤子には実に不思議な光景であった。アメリカでは夫と妻が上下の関係ではなく、横並びなのだとわかり、深く納得できるのであった。

 

 賤子は、勉強そのものはもちろんであるが、ミラー先生夫妻や他の先生たちの考え方や習慣や人間関係に深く心を動かされた。その一つ一つが賤子の人格形成に大きな影響を与えていった。学校は寄宿制であったから生徒も教師も同じ場所で寝食をはじめ生活のすべてをともにする。まるで一つの大家族のようであった。キダーは家族のような学校をモットーとしていたから、寄宿舎の雰囲気にはそれが色濃く表れていた。今や賤子にとって、キダー先生こそ、優しい愛に満ちた頼もしい母であった。キダーのそばにいることがうれしくてならなかった。賤子は会津を出て以来初めて、深い心の安らぎを得た。

 

 横浜の山手の高台に建てられた『フェリス・セミナリー』の校名は、キダーの資金要請に応えてくれたアメリカン・ダッチ・リフォームド・ミッションの総主事アイザック・フェリスの名をとった。キダーが志を立ててから七年が過ぎていた。それまではキダーは「私の学校」と呼び、人々も「キダーさんの学校」と呼んで親しんだ。その後も単に「寄宿学校」と言われ、日本で初めての女子教育機関、それも珍しい寄宿制にちなんで、固有名詞のようになり、人々に慣れ親しまれ、その名を広めていった。

 

新しい学校の外観は洋風であった。教室は外国式の椅子と机を置いた。授業は八時に始まり午前中は英語の授業、午後は和文学と漢学を勉強した。寄宿舎は畳敷きの部屋に数名が入った。生徒たちは和服姿であり、食事も基本的には和食であった。

 

 夏休み前には生徒数は一八人になり年末には四〇人収容が満員になった。ほかに通学生が一〇人いた。キダーは相変わらず「我が大家族」と呼んで家族主義を貫いた。クリスマス前には予告なしの公開試験があった。生徒たちはみな向学心に燃え、頭脳明晰であった。賤子は三年ほどのブランクをものともせず、半年後には英語で巧みに話せるようになった。キダーは賤子に特別に目をかけ、先生ご自慢の生徒になっていった。

 

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会津若松の火炎 *若松賤子の生涯* その5

 

  *大川家没落・東京へ

 

 それは思ってもみない一大事件であった。賤子は再び無情な世の暴風に翻弄されることになった。賤子を引き取って精一杯愛情込めて養育してくれた養父大川甚兵衛に火の粉が降りかかった。振り払えない火の粉であり、焼きつくす炎であった。

 

 甚兵衛の仕える山城屋は維新後陸軍の御用商人として豪商に成り上がった。世にいう政商であろう。ところがあることから大きな借財を抱えることになったが、関係筋の政府の要人や役人から見離され、一切の責任を一人で負うことになった。ついに和助は陸軍教師館の応接間で割腹自殺した。明治五年十一月のことである。和助は他の人に類が及ばないように一切の不利な証書を焼き捨て、自分ひとりが責任を取った。

 

 この事件は陸軍汚職第一号として世間に知れるところとなり講談の種にされ新派で上演されたほどである。そのとき山城屋には番頭手代、つまり社員ともいうべき人が四八四人もいたといわれる。大番頭であった大川甚兵衛は和助を助けるために金策に東奔西走したが、かつては甘いものにたかる蟻のように山城屋を取り巻いていた役人や同業者たちはいち早く去り、だれ一人味方するものはなかった。当然、店は倒産、雇人は路頭に迷うことになった。

 

 甚兵衛の努力はすべては水泡に帰し、彼自身も身が立たず夜逃げのようにして横浜を去らねばならなかった。

甚兵衛は降りかかった火の粉に身を焼かれつつも、賤子にはもの優しかった。事の次第を話して聞かせた。賤子には理解する力があると信じたし、また養父としての責任からも黙っているわけにはいかなかった。だますような真似はしたくなかった。

 

 「賤子、家の様子がおかしいとうすうす感じているだろうが、難しい事情があって、大川家は横浜にいられなくなった。支度が出来次第東京に行くことにした。わかってもらいたい」

 甚兵衛は正座した膝の上に両手を置き、頭を垂れた。そばには後妻のおろくと先妻の娘もいた。おろくがしくしくと泣き出した。娘もつられたのか泣きじゃくった。

 賤子は泣かなかった。泣くどころではい、大好きな横浜にいられなくなると思うと動悸が激しくなり胸がきりきりと痛んだ。

「学校へはもう行かれないのですか。ミス・キダーには会えないのですか」

 賤子にはそれしか頭になかった。キダーさんの学校は賤子のいのちであった。

「当分は、な、すまない、賤子。我慢してくれ」

 甚兵衛は目をつむった。賤子の胸は火のように熱くなり、初めて熱い涙が噴き出た。

「世の中の難しいことがなくなったら、きっと、きっとまたキダーさんの学校へ帰してください。お願いします」

「賤子の気持ちは決して忘れない。肝に銘じて覚えておく。早くその日が来るように、神に祈って待っていてほしい」

 

 明治六年早々に、大川一家はわずかな荷物を持って東京は浅草や上野に近い当時の下谷区下谷稲荷町に転居した。荷物一つで知らない土地へ落ちていくのである。賤子は戦火に焼かれる会津の町から逃げた日々を思い出した。このたびは戦火こそなかったが、賤子の心のうちには憤懣の黒煙が炎を見え隠れさせながら充満していた。

 ――どうしてまたよその町へ逃げていかなければならないのだろう。ミス・キダーや友だちに会いたい。勉強したい、英語で賛美歌を歌いたい――

 

 東京で、大川一家四人がどのように暮らしたか、およその想像がつくというものだ。賤子には、学校へ行けないことへのストレスが大きかった。賤子の耳にはキダーさんの英語が鳴り響いていた。覚えたわずかな英語が口をついて出た。学校へ通ったのはほんの一年ほどであったが、英語は賤子の内部に深く浸透していた。聞き取る力だけでなく、話すことも、書くことも驚くほど上達していた。

 

 東京の暮らしの中で、周辺から聞こえてくるのは横浜とはちがう東京の言葉であった。会津の言葉も横浜の言葉も賤子は好きであったが、東京の言葉には特に惹かれるものがあった。賤子の言語体系は様々な言語を基礎にしてふくらみ強くなっていった。賤子はこうして東京の下町で三年ほど過ごしている 賤子の実父松川勝次郎の消息は正確にはだれにもわかっていない。そもそも勝次郎は会津藩のれっきとした藩士ではあるが、藩から指令された仕事は隠密であったために本名を使わず島田とした。賤子も結婚まで島田嘉志子と名乗っている。

 

 勝次郎は会津の城が落ちると、榎本武揚率いる幕府軍に加わり箱舘(函館)戦争で戦った。多くの会津藩士も加わっている。しかし戦いは官軍の勝利に終わった。その後、会津藩が国替えされた青森県の下北半島、斗南(となみ)へ渡った。そこからさらに海を越えて北海道札幌区の後志半島に入った。ここは斗南藩(旧会津藩)に加増された土地であった。斗南から二千人が移住した。斗南では生活が成り立たなかったからである。

 

 賤子が大川甚兵衛の養女になるについては、勝次郎のたっての願いによるものである。勝次郎はどこにいてもあらゆる手立てを講じて家族の消息を追いかけていた。勝次郎は非情の人ではなく、藩命に従うことを第一としながらも一家離散を憂いていた。世情が落ち着き一家を養う力ができたときは、賤子、みやの二人の娘たちを引き取っていっしょに暮らしたいと心底から願っていた。勝次郎の娘たちへの情は熱かった。

 

  山城屋の事件は日本中に知れるほどの一大ニュースであったから当然勝次郎の耳にも入ってきた。

 「それで、賤子は、賤子はどうした、どうしているだろう」

 大川家が東京の下谷にいることを突き止めると矢も楯もたまらず、決して少額ではない旅費を工面して、夜を日に継いで駆け付けた。顧みれば、娘とは維新前夜、藩主容保に随行して京都に発って以来別れたきりである。賤子も父の面影は母と同じようにほとんどない。しかし亡き母とともに忘れられるものではなくひそかに恋い続けた。母には会えなくても父には会えるはずだと思うと恋しさは募るばかりだった。毎日顔を合わせ、過分なほどの愛情を受けていても、悲しいかな甚兵衛は養父でしかなかった。 

 

 その勝次郎が家の戸を開ける前から、賤子は察知した。賤子の天的な鋭い勘か、肉親の血の業だろうか、

「父上が来られる、たった今、父上が来られた」賤子の心は躍りに躍った。父の匂い、父の声、肌の温かさに賤子は分身を感じた。親鳥の懐に抱かれるヒナのように賤子は勝次郎から離れなかった。

「賤子、大きくなったなあ。一日も忘れたことはないぞ。甚兵衛殿とおろくさんのおかげだ。ご恩は決して忘れてはならない」 勝次郎は畳に額をつけて二人に礼をした。そこには落ちぶれてはいても礼節を重んじる武士の魂が凛々と光っていた。

 

 「賤子が願っていることは何か、したいことは何か、望みがあるか、聞かせてもらいたい」

 唐突な問いであったが賤子はきっと顔をあげ、勝次郎を見つめた。

「私の一番の願いはキダーさんの学校に戻ることです。学校へ行きたいのです、勉強したいのです、英語を学びたいのです。キダーさんの学校で」

 

 これには勝次郎だけでなく、むしろ甚兵衛がいちばん驚いた。賤子の気持ちを知らないわけではなったが、東京に来てからは一度も聞いたことがなかった。子どものことだから日に日にその思いは薄れ、忘れているだろうと思っていた。甚兵衛は、この子のうちには火が燃えている、ただの願いではない、なにか大きな炎が燃えていると感じた。勝次郎も甚兵衛も深くうなずいた。

 

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会津若松の火炎 *若松賤子の生涯* その4

*横浜へ・大川家の養女に

 

 祖母の一途の期待にたがわず、大川甚兵衛は神の使いであった。

 神は賤子という孤児同然の幼子を荒野のがれきの中から拾い上げてみふところの奥深くに抱き、横浜へ導いた。

 

 横浜。

 明治三年の横浜は、東京と改名した江戸よりも一段も二段も開け、いたるところ活気あふれる日本一繁栄した町であった。賤子には見るもの聞くものすべてが初めてのことばかりであり、特に会津では見かけたこともない外国人に目を瞠り、大きな興味を抱いた。背丈が高く美しい服装をした男女が、表情も豊かに楽しそうに話しながら往来する姿にはただただ声もなく驚いた。

しかも彼らは賤子の知らない言葉を話していた。自分たちと同じように、外国人たちも自分たちのことばを使っているのだ。不思議でならなかった。できれば何と言っているのか知りたかった。その言葉を知りたい、できれば自分も使ってみたいと強烈に思った。

 

 賤子は横浜が好きになった。会津に比べると空は明るく、空気は暖かく、海風には匂いがあり、大きな海鳥が大きな羽を広げてゆうゆうと旋回している。賤子は町の雰囲気がすっかり気に入った。特に入り混じるあらゆる音が気にいった。音の中にいると生きている気がした。自分の中から強い力が突き上げてくるような気がした。

 

 賤子の住まうようになった家は外国人居留地のすぐ近くであった。甚兵衛の妻おろくは後妻であり、先妻の女の子もいたが、なさぬ仲の子どもたちを大切に養育した。母と言うよりも下女のように甚兵衛にも子どもたちにも仕えた。そのせいか、賤子はおろくには母としての思いは生まれなかった。母と呼んだことはなかった。甚兵衛も強要しなかった。

 

 幸いに、甚兵衛は新政府に出入りする生糸商山城屋の大番頭である。財力には事欠かなかった。賤子は高価な衣服を着せられ、栄養のある食べ物をふんだんに与えられたが、生来虚弱体質で、すぐに熱を出しお腹を壊した。横浜の水が合わなかったこともあった。また、戊辰戦争以来の数年、食うや食わずの生活が続いたため、体の芯が発育不足だった。

 

 甚兵衛とおろくの心配ぶりはたいへんなもので、着る物、寝る物、食べる物に至るまで賤子がうんざりするほど気を遣った。賤子はしたい放題をしてもゆるされる味を知った。自分の好みに合わないものは着る物でも食べる物でも頑として受け入れなかった。賤子の自我が芽生え勢いよく強くなる年齢でもあった。

 

 まもなく賤子は関内の外国人の住まいに連れて行かれた。甚兵衛は、聞き知った外国人の学校へ入れたのである。甚兵衛は日ごろの様子から、賤子の中に並外れた資質を見たのであろう。教育を思い立った。それも、新しい教育、外国人による教育を思いついたのだ。

――この子は体は弱いが精神が強い。あの目の輝きはなんだろう。こんな光は見たことがない。特に外国人を見るときの目には火が燃えている。会津の炎だろうか。きっととてつもない火に燃え上がるだろう。ありきたりの教育ではなく、いままでの日本人が受けたことのない教育を外国人から直接教えてもらったらいいのではないだろうか。きっと火が燃える。なによりも賤子は大喜びするだろう――

 

 甚兵衛を会津に遣わした神は、今回も賤子を新しい地に連れ出した。神は会津の孤児を見捨てず、見離さなかった。『キダーさんの学校』へ行く日、甚兵衛は賤子に話をした。賤子の考えも聞かねばならない、無理矢理はいけないと思った。甚兵衛は賤子が親の言いなりになる子ではなく、芯があり、自分で考え自分で決める子であることもわかってきた。

「関内に、日本の子どもに勉強を教える学校が出来たが、賤子にはそこに行ってみる気持ちはあるかな」

 甚兵衛の思った通り賤子の瞳が光った。

「キダーさんと言って、アメリカから来た女の先生だそうだ」

 賤子の顔に花が咲いたような笑みが浮かび、目はさらにキラキラと輝いた。

「わたし、行きたいです。すぐにでも行きたい、連れて行ってください」

 甚兵衛は大きく頷いた。思った通りであった。

「今日から行きなさい。学校にはもう話してあるから」

 甚兵衛は付き添いのねえやを雇ってくれた。

 賤子は飛んで跳ねたいほど興奮した。

 心配性のおろくは、外国人の前で恥をかかないようにと新調の着物を着せ、真新しい白足袋に真新しい草履を用意し、着物と共布の巾着を持たせた。学校で使う道具は甚兵衛が前もって調べておいたのか、付き添いのねえやが風呂敷に包んでかかえていた。

  

 *キダーさんの学校へ

 明治四年九月、賤子は七歳であった。

 キダー先生は賤子を見ると透きとおる声で短く叫び、白い歯を見せながら賤子の頬を両手で挟み、引き寄せて抱きしめた。言葉の意味は分からなかったが自分を喜んで迎えてくれたのが伝わってきた。キダーの柔らかいふっくらした胸から温かいいのちが体の中に入ってくるようだった。外国の女性に抱かれたと思うと気が遠くなるような気がした。

 

 キダーの黒い瞳が光っていた。髪の色が金髪ではなく、縮れてはいたが自分と同じ黒髪であったのが親しみを増した。顔の色は透きとおるように白かった。賤子も白かったが血色は悪く肌は荒れていた。

 学校は女子だけだった。午後の三時間が勉強時間であった。

 

 『キダーさんの学校』は日本で最初の女子教育機関であったとはいえ、「ヘボン施療院」の二階の一室をこの時間だけ借りた仮教室であった。賤子の家からは一〇分ほどの所で、通いやすかった。ヘボン施療院は、アメリカ長老派の医療伝道宣教師ジェームズ・カーティス・ヘボンが開いた。ヘボンは医療と並行して聖書の日本語訳にたずさわり、また初の和英辞典である『和英語林集成』を編纂し、ヘボン式ローマ字を生み出した。明治学院大学を創設したことでも有名である。

 

 ついでながら述べるが、横浜は「祖国の中の異国」と呼ばれ、新しい文明を学び、身を立てようと志す人々が全国から集まってきていた。戊辰戦争に敗れた旧幕臣や佐幕派の家臣や子弟たちも多かったが、つい先ごろまでの利害関係に固執することなくそれぞれ新しい志に向かっていった。

 

 賤子と同郷の井深梶之助はアメリカ宣教師ブラウン博士に英語を学び、のちに明治学院を創立する。旗本出身の植村正久は横浜バンドを結成し、熊本バンド、札幌バンドとともにキリスト教の大きな流れを作り、東京麹町の富士見町教会の牧師になる。伊予松山藩の押川方義は、東北学院、仙台教会を創立、弘前藩士本多庸一は青山学院長になる。彼らは明治の代表的クリスチャンであり信仰の力で江戸時代から続く封建的人間関係や偏見、慣習と戦った。

 

 キダーさんこと、メアリー・エディ・キダーはアメリカ、リフォームド教会外国伝道協会から派遣された日本で最初の女性宣教師である。一八三四年、北アメリカ、バーモント州ウインドハムのウォーズボロで生まれた。早くから「神さまが私を導いておられる」との確信のもとに外国伝道に大きな志を抱いていた。後に日本初の宣教師となるS・Rブラウンの経営する学校で教師として少年たちを教えていたが、ブラウンはキダーの教師としての天分を早くから見抜いた。キダーはブラウンが日本に派遣される時、かねてからの志を実現したかったが、そのときは諸事情で阻まれ、実現しなかった。キダーは神の時を待った。

 

 やがて、新潟英語学校へ日本政府から正式には招聘を受けたブラウン一家とともに明治二年八月二七日横浜に上陸した。キダーは前述の団体の命を受けての来日であった。ブラウンが同協会へ、キダーこそは異教の地の伝道に適した婦人であり、女子教育は日本がキリスト教国の仲間入りをする前にやりとげねばならない、それは今すぐに始めるべきですと推薦状を送っている。こうしてキダーの宿願は実現した。時にキダーは三五歳であった。

 

 ブラウン一家とキダーはまもなく新潟へ出発した。明治二年十月六日である。約五〇人の従者と両刀を差した一〇人の武士に守られ、駅馬車や駕籠に乗り、高崎、安中、長野を経て新潟に入った。ブラウンは英語を教え始めた。日曜日は自宅でバイブルクラスを開いた。キダーはまず参考書を片手に日本語を学び、かたわら日本の少年少女たちに英語を教えた。しかし翌年には政府の方針が変わり、ブラウンは横浜に呼び戻され修文館校長に就任した。キダーはブラウンの紹介により、居留地三九番のヘボンの施療院で、へボン夫人が教えていた生徒たちを引き受けて教え始めたが、日本には女子だけの教育機関がないことに気づき、ゆくゆくは女子だけを教える決意をした。

 

 翌年明治四年秋からは女子生徒だけを教えるようになった。授業は一日三時間、午後一時から四時までで、英語、讃美歌、聖書が主な授業内容であった。若松賤子が導かれたのは、奇しくもこのキダーさんの学校なのであった。賤子は最年少でしかも最初の女子だけの生徒であった。これが後のフェリス女学院のスタートであり、日本における女子教育機関の発祥であった。

 

キダーは学校の様子を本国へ詳しく書き送っているが、そこにはこんな一節がある。

「少女たちはみな利発で理解が早く、アルファベットの大文字、小文字を覚えるのに、一人は第一日目に全部覚えてしまいました。賛美歌を教えましたが『主われを愛す』を美しく歌います。『牧主わが主よ』、『ささやかなる しずくすら』なども歌えます……」とある。

 

 賎子はキダーさんの学校にいる時だけはこの世とは思えない喜びを感じた。会津の恐ろしさも横浜の家の不自由さも全部忘れてしまうほどであった。聞いたことのない言葉が飛び出すキダーの口元を身じろぎもしないで見つめ、そっと真似てみた。口の格好が日本語とは違う動きをし、口の中の舌の回り方も凝視した。ひそかにまねをした。言葉と同時に両手が縦横に動くのも見逃さなかった。踊りを見ているようであった。言葉と動作が一つになって、強い印象を作っていた。賤子は言葉の意味こそ分からなかったが身振りや顔つきで内容を理解することができた。その英語で、歌を歌うのも楽しかった。そのときは自分と英語が一つになった気がした。

 

 賤子だけでなく生徒たちはみな熱心に学んだ。向学心に燃えていたのだ。往年「ただもう、高等の教育を受けたい一心であった」と述懐する生徒もいた。キダーさんの学校はたちまち評判になり、続々と生徒が集まってきた。翌年の十二月には四十人に膨れ上がった。いつまでもヘボンの施療院を使わせてもらうわけにはいかなかった。

キダーさん学校の評判を聞きつけて神奈川県令大川卓の夫人が入学してきた。お供を連れての学びである。ギダーは県令夫人の入学したことが、女子教育が世に好感を持って受け入れられている証拠だと見て、喜びと誇りを感じた。一方、生徒には賤子など年端もいかない女子がいる。キダーはその生徒たちにこそ日本の未来への希望を夢見、愛と情熱をそそいだことはもちろんである。

 

 県令夫人は手狭な教室を見て、さっそく夫に働きかけた。まもなく野毛山紅葉坂の官舎の一部を借りることができた。そこはこじんまりとした日本家屋の一軒家であった。キダーはたいへん気に入った。学校にとっては願ってもない幸運であった。しかしそこまでは三キロもある。そこで、大江夫妻の配慮によってキダーには人力車が提供された。車夫の費用は政府が払ってくれた。しかし賤子は人力車どころではなく学校にさえ行けなくなった。賤子の家、大川家の財政は思わぬ事件によってひっ迫し、まもなく破綻してしまうのである。

 

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会津若松の火炎 *若松賤子の生涯* その3 

会津若松の火炎 その3

 

*賤子と会津藩

 若松賤子(本名甲子(かし)・嘉志子)は維新前夜の元治元年(一八六四年)三月一日、現在の福島県会津若松市に、会津藩士松川勝次郎正義の長女として生まれた。会津藩は藩祖に徳川家康の孫であり三代将軍家光とは異母弟にあたる保科正之をいただき、その三代目から松平姓を名乗って川の親藩となった幕府一辺倒の忠藩である。

 

 正之の作ったかの有名な『会津家訓十五箇条』はその第一条に『会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない』とあり、家訓は武士だけでなく婦女子にも行きわたり、武士の子は小さい時から「ならぬことはならぬ」と躾けられて育った。こうした藩の教育の上に会津魂が形成され、最後の藩主松平容保(かたもり)まで脈々と受け継がれた。賤子の父勝次郎はこの会津精神の塊のような人であった。

 

 また会津藩は文武と同時に二三万石の経済力にも秀で、東北の雄藩として幕府にあてにされ、賤子の生まれる二年前、文久二年に、容保は京都守護職に任ぜられた。このとき容保以下藩士千人が京都に赴任していった。幕府の命とはいえ、遠く会津から京都へ、藩士の四分の一が移住したのである。忠藩とはいえ、苦渋の決断であった。賤子の父は姓を島田に変えて、隠密として随行した。賤子も結婚するまで島田嘉志子を名乗った。

 

 京都にあって会津藩は禁門の変では朝敵長州を破ったが、その後鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争では討幕軍から朝敵と目され、ついに都落ちし、容保以下藩士は会津で郷土決戦を迎える。しかし籠城もむなしく鶴ヶ城は落城、その後函館五稜郭の戦いまで徹底抗戦するが、薩長土肥を中心にした新政府軍の前に壊滅するのである。賤子の父勝次郎はこの函館戦にも参加した。城は八月二三日の奇襲から一か月後の九月二二日に降伏し、城明け渡しとなった。

 

 城外に逃れた賤子たちはその後も山野をさまよい続け、十月末にようやく帰還を許された。しかし城下は一面焼け野が原、町の五分の四は焼かれ、わずかに残る建物は占領軍に荒らされあるいは奪われ、賤子たちは住むに家なく、食べるに食なく、どのようにして飢えと寒さをしのいだのか、賤子の記憶にはない。賤子がうっすらと覚えているのは、母の死であった。母は官軍突撃のあの日、逃避行の途上でみやを産んだが、心身への負担は過酷であった。裂かれた心は修復の術がなかった。飢えのために出ない乳に吸いつくみやを抱きしめながら、息絶えたのであった。賤子には、母は目もくらむ炎の中へ吸い込まれるように消えていったとしか思えなかった。その時以来母への思慕は消えることはなかった。賤子はいつも無言のうちに無意識の内に母を恋慕っていた。しかし母の面影は思いだせなかった。

 

 藩主容保以下生き残った藩士たちは全員捕虜となり、城内にいた三千人は猪苗代収容所に、城外の千七百人は若松の北の塩川に、その後は東京と越後高田に預けられた。会津若松には一人の藩士もいなくなり、山野をさまよった年寄りと子女だけが取り残された。

 

 明治三年、旧会津藩士は赦免されたが、会津に住むことはゆるされなかった。本州最北端の、不毛の凍土が続く「斗南(となみ)」へ強制移住させられた。国替えとは名ばかりで実質は流罪同然であった。賤子の父と祖父の行方は杳としてわからず、賤子と赤子のみやを抱えた祖母の三人が、斗南へ行ったのか若松に戻ったのか、後年になっても賤子は語らなかった。

 

 ある日、ほそぼそと暮らす賤子宅を見知らぬ中年の男性が訪れた。町人風で旅姿であった。父勝次郎の言づてを持ってきたと言った。祖母が緊張して迎えた。六歳になった賤子は妹のみやと祖母の後ろに隠れるようにして座った。

「私は大川甚兵衛と申します。横浜で商いをする山城屋の番頭です」

 男は祖母にていねいに挨拶をすると深々とお辞儀をした。祖母は身なりこそ粗末であったがもと武家の婦女としての威を示すように、背筋を伸ばして客に対した。

 

 甚兵衛の話はこうであった。賤子の父勝次郎と甚兵衛の主人山城屋和助は戊辰戦争以前、会津藩が京都守護職であったころから親交があった。その中で、勝次郎からもしもの時は家族を頼むと託されたという。それを主人和助から聞かされ、商用で若松に来たので伝えに来た。勝次郎からは賤子を甚兵衛の養女に貰ってほしいと懇願されたという。思いがけない話であった。 祖母はじっと話を聞き、じっと甚兵衛を見つめ、甚兵衛の人となりを見抜いた。自分たちは維新の戦いに敗れ今は乞食同然の身の上である。勝次郎の意志と自分たちの境遇を思うと、将来のある孫のために、目の前に差し出された手を運命の意志と信じて託してみようと、即座に勇断したのであった。

 

 こうして、六歳の賤子は甚兵衛に手を引かれて、遠く横浜の大川家に貰われていった。

その後、妹のみやは親戚の世話になるようになり、祖母は帰還した夫とともに会津の新地斗南へ移住していった。父勝次郎は幕府の榎本武揚の軍に飛び込んで函館戦争に参加したが、生き延びた。が、すぐには賤子のもとに帰らず、後年、横浜で再会するのである。

 

10:04 | - | - | pookmark
会津若松の火炎 *若松賤子の生涯* その2

*維新の火炎をくぐって・戊辰戦争の犠牲

 

 八月二三日(太陽暦なら一〇月八日)早暁、

賤子はひんやりした秋の空気を頬に感ずると同時に耳を突き破るような轟音に飛び起きた。

「敵だ!」

 祖母が吠えるように叫んだ。

「まだ、お城の鐘が鳴りません」

 母は怯えるように言った。そこへ、警鐘がけたたましく鳴り響いた。

 

 祖母は枕元の袋を素早く背に括り付けると賤子の手を固く握った。このところいつでも飛びだせる身支度で寝ている。母は産み月のお腹を覆うように上着を羽織った。

 祖父と父は戦場に赴いていて、生死さえわからない。

 戸を開ければすでに人の渦であった。

 

 一八六八年戊辰の年、元号で言えば慶応四年、明治に変わる半月前の朝、会津若松は新政府軍の急襲を受けた。先頭を切ったのは土佐の板垣退助が率いる一隊であった。

 

 

 城に一番近い元家老西郷頼母の留守宅に入ると、邸内には二一人の子女たちが自害していた。

 

 籠城を決めた藩主松平容保は堅く城門を閉ざした。

行き場を失った人々は大波のように西へ西へと押され流されて行った。

 賤子はようやく四歳である。何度転んだかわからない。その度に祖母に引っ張り上げられる。祖母の腕は強かった。すぐ後ろにいる母が一歩ごとに賤子の名を呼び続ける。祖母は後ろも見ずに母を励まし「しっかりなされ」と声をかける。

 

 背後から鋭い音を立てて銃弾が耳元をかすめて飛んでいく。火の粉が散ってくる。大砲の轟音と銃声に混じって、悲鳴やうめき声が黒い塊になってぶつかり合っている。地面には怪我人とも死人とも区別のつかない人の体が歩く先々に転がっていた。

 

 ひしめきあう群衆とともに賤子たちは城外へ流れて行った。群れは老人と子女ばかりで

ある。どこをどの位歩いたのだろうか、喉は干からび空腹を抱えて意識さえ朦朧としていた。

母が鋭い叫び声をあげて崩れ伏した。うめき声が続いた。出産が始まったのである。とっさに周囲の人たちが母を抱えて窪地へ連れて行った。

  

 しばらく後、赤ん坊のかん高い泣き声が響き渡った。女の子が生まれたのである。賤子の妹みやであった。みやは、後に賤子亡きあと、残された甥や姪を母代りになって育てた人である。戦乱の地獄絵図は賤子の小さな眼底に鋭く深く刻みこまれ、生涯消えることはなかったのである。その火炎とともに。

  

17:12 | - | - | pookmark
会津若松の火炎 *若松賤子の生涯* その1

 

3月を迎えて、新しい思いを与えられました。

世は新型コロナウイスル肺炎の脅威に戦々恐々とし、右往左往しています。

いつ我が身に降りかかってくるやもしれない不安を抱えていますが、

とりあえず、できる限りの防疫に努めながら、

自分の日常をこなしていくしかありません。

全知全能の神に、この世界を救いたまえ、一日も早く収束させてくださいと祈るのみです。

 

 

今日から、数年前に一冊にまとめた作文を掲載していきます。

タイトルは『会津若松の火炎・日本初【小公子】の翻訳者 若松賤子の生涯を追って』です。

一言紹介しますと、若松賤子(しずこ)は明治前半の時代に、日本で初めて『小公子』を翻訳した女性です。日本初の女医第一号荻野吟子の生涯『利根川の風』に続くものです。彼女たちは日本のプロテスタント史上では地味な脇役ですが、生涯をかけた偉業とその熱い信仰は決して見逃すことはできません。貧筆ながら、その生涯を追いかけてみました。

 

★会津若松市宮町の生家跡に建立された文学碑には、『私の生涯は神の恵みを/最後まで心にとどめた/ということより外に/語るなにものもない/若松賤子』と、刻まれています。

★賤子は維新の四年前、一八六四年に会津藩士の子として生まれ、一八九六年に肺結核のためにわずか三二歳の誕生日を前に、三人の子を残して世を去っていきます。

★賤子は戊辰戦争、会津戦争の火炎をくぐり、神の不思議な導きで、横浜に貰われ、日本初の女性宣教師キダーさんの学校に通うようになります。この学校はのちのフェリス女学院です。

★一三歳の時、これも日本初のプロテスタント教会、横浜海岸教会で洗礼を受けています。

 

 

*前がたり・あらすじを兼ねて 

 

 だれでも一度は読んだり耳にしたことのある児童書『小公子』を、初めて日本語に翻訳したのが若松賤子です。明治二三年、結婚の翌年、二六歳の時のことです。結核という当時は不治と言われた病の中で長女を出産した年でもあります。《初めて》とは大変な偉業ですが、若松賤子の名は『小公子』ほどには知られていません。それがいかにも残念です。明治もまだ前半の時に、外国語を習得して翻訳までするとは並みの事ではありません。しかも女性が、です。明治の代になったとはいえ、まだ封建時代からの男尊女卑の風潮は色濃く、女性が高等教育を受けるのさえ容易ではなかった頃です。

 

賤子はどのようにして英語を学んだのでしょう。

 素朴な疑問を追いかけていくと、小説にも勝る波乱に満ちた賤子の生涯が、いくつかの大事件と歴史の情勢を背景にめまぐるしく繰り広げられていきます。大河ドラマ化されてあまねく世に知られることを願うほどです。

 とはいえ、当の賤子は自分の伝記が書かれることさえ禁じたほどに人の賞賛を避けた人です。墓石にも『賤子』とのみ記すように指示しました。

 

津若松市宮町の生家跡に建立された文学碑には、『私の生涯は神の恵みを/最後まで心にとどめた/ということより外に/ 語るなにものもない/ 若松賤子』と、刻まれています。「賤」とは神の前の姿勢です。神の御前には賤しい者でしかないとの低き心を表しており、神一辺倒の敬虔な信仰の象徴です。人の前に自己を誇るような行為を厳しく否定する賤子の意志に深く共感しますが、それだからこそ、筆者としてはそんな賤子が愛しくて、世に紹介したいと思うのです。賤子が身を屈めた神の栄光のためにです。この志なら、さしもの賤子も、同じ神の賤の女である筆者の志を許してくれるのではないでしょうか。

 

 賤子は維新の四年前、一八六四年に会津藩士の子として生まれ、一八九六年に肺結核のためにわずか三二歳の誕生日を前にして三人の子を残して世を去っていきます。

 

 会津藩と言えば、最後まで川幕府に忠誠を尽くしたために、戊辰戦争、会津戦争で激しい戦禍に遭い、維新の怒濤をまともにかぶった悲劇の藩です。賤子の一家も例外ではありませんでした。火の粉を浴びながら山野をさまよった末、やがて横浜に貰われ、日本初の女性宣教師キダーさんの学校に通うようになり、そこで、生の英語に接します。

 

 学校はのちに『フェリス女学院』に発展しますが、第一回の卒業生賤子はそのまま母校の教師になり、女子教育と文学に打ちこみ、まもなく新進の教育者文学者、巌本善治と結婚します。善治は東京麹町に開かれた『明治女学校』の校長として活躍し、女性啓蒙のための『女学雑誌』発行の任も負います。賤子はその雑誌を舞台に、執筆に燃え、前述の『小公子』をはじめ、多くの作品を発表しました。しかし、すでに独身時代から発病していた結核にさらに蝕まれ、結婚してわずか七年、その間に三人の子どもの母となり、四人目を宿しつつ天に帰っていきます。その日は、明治女学校が火災に遭ってほとんど焼失した数日後のことでした。

 

 賤子は、宣教師キダーさんと起居をともにする中で、キリスト教の信仰に導かれ、一三歳の時、これも日本初のプロテスタント教会、横浜海岸教会で洗礼を受けます。以後、生涯にわたってイエス・キリストへの愛と信仰に燃え続けます。信仰は賤子を支える根源であり、活動の中心柱であり、賤子の人格の隅々にまで強い力を及ぼしました。

 

 賤子の信仰の土台は「神を信じた者は聖霊によって新生し、神の子になる」という教えでした。賤子には「神の子」はすなわち「賤の女」であって決して相反したり矛盾してはいないのです。会津戦争の火炎をかい潜った賤子の魂にはイエス・キリストの聖霊の火が清い炎で燃え盛っていたのです。

 なお本著では「若松賤子」を通しましたが、これは賤子のペンネームです。本名は「島田嘉志子」、フェリスでは「おかしさん」と呼ばれ、夫善治は人前でも「かしさん」と友達のように呼ぶので、珍しがられたそうです。

 

 

 

21:03 | - | - | pookmark
サムエル記を愛して その43  終わり

 今回で「サムエル記を愛して」は終了です。

長期にわたっての掲載になりましたが、

忍耐を持って愛読してくださった皆様に、

心から感謝申し上げます。

 

サムエル記第二・第二一章〜二四章(終章)  

 

 この章から二四章の終章までは、一般には、付記として扱われています。

今までに書ききれなかったことや前後関係が不明瞭な事柄なのでしょう。思い出して書くと言う作業の中で、順序立てては入れられないが、闇に葬ってしまうわけにもいかない、そこにも神が働いておられるのだからと、選択、収録されたのかもしれません。

 

 二一章では、国を襲った大きな飢饉の原因がサウル王の罪にあることを主から示されたダビデが、その清算をして王国の安泰を得る記事があります。この罪はサウルがギブオン人を滅ぼそうとしたことです。イスラエルとギブオンはヨシュアの時代に和平契約を結んでいたのです。主はサウルの罪を見逃しませんでした。ギブオン人はサウルの子どもたちの命を要求してきます。ダビデは七人を引き渡すのです。サウルの罪をダビデと王国が負うことに違和感を抱きますが、神の支配する国に未処理の罪があってはならないのです。ダビデは王国の最高権力者ではあっても、神様から託された神の国の管理人なのです。

 

 二二章はダビデの賛歌です。『主がダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、ダビデはこの歌のことばを主に歌った』と前文に説明があります。

見ればこの歌は詩篇一八篇とほとんど同じです。詩篇の中でも有名で親しまれています。しかし詩篇の中の一つとして読むのと、サムエル記の終わりに当たって読むのとでは迫って来るものが違いリアル感が強いのは不思議です。

 前書きの『特にサウルの手から彼を救い出された日に』が、胸に迫ります。救い出された日とはどの時のことでしょうか。確かなことはわかりません。ダビデはどれほどサウルに苛められたことでしょう。いきなり槍を投げつけられることから始まって、三千人の精鋭を引き連れて追いかけられることもありました。その度に危機一髪のところで助かってきました。神が救ったことは明らかです。ダビデもそれがわかればこそ、こうして魂を全開して神を賛美し神に感謝し、美しく歌い上げているのです。

 

 二三章の前半はダビデの最後のことばとされていますが遺言とは違うようです。人生の集大成としての神への賛歌ではないでしょうか。

『義をもって人を治める者/神を恐れて治める者は/太陽の上る朝の光/雲一つない朝の光のようだ/雨の後に/地の若草を照らすようだ』3、4節。実に今や世界はこうしたリーダーを切望しているのではないでしょうか。

後半の、ダビデ軍団、ダビデ王国の勇者の一覧は楽しい限りです。戦いの猛者たちですが、神の国のために選ばれた王ダビデに誇りを持ち、命を賭して仕えた人たちなのです。

 

 二四章の最終章が結びとは思われない記事で終わるのは理解に苦しみます。旅のバックに、思い出して大急ぎで突っ込んだグッズのようではありませんか。しかし内容は意味深長で理解に苦しみます。テーマは聖書の他の箇所でも出てくる人口調査です。国民の数を知るのは為政者にとっては大切ですが、それをどのように用いるかが問われるのでしょう。《数》は所有者の誇りになります。ダビデは、自分の罪がわかるとすぐに悔い改めて償いをします。神へのいけにえは、悔いし砕かれた魂!この姿勢こそ神がもっとも喜ばれる信仰なのでしょう。

 

 ダビデの信仰の結語は《主はわが羊飼い》!!

 

おわりに

聖書の風は止むことはありません。

主の愛には終わりはありません。

これからも永遠に力に満ちたいのちの風をそよがせ続けるでしょう。

しかし、

キャッチする人間のいのちは有限です。

いただいた聖書の風を、いつまで文章化できるか、

それは、神のみぞ知る領域です。

風に吹かれて、風に導かれて、

ペンも持つ手(実際にはキーを叩く手)が動く限り

細々ではあっても

書き続けたいと思ってはいますが

ひとまず手を休めます。

 

ハレルヤ!!

 

 

09:50 | - | - | pookmark
サムエル記を愛して その42

 

サムエル記第二・第二〇章 ヨアブの行動

 

 もともと十二部族から成るイスラエル国家ですが、初代のサウルはベニヤミン族出身、ダビデはユダ族から出ています。リーダーを排出する部族は何かと優位に立ちます。要職には出身地の者たちや親族やお気に入りが占めるのは今も昔も変わりがないようです。いわゆる《お友達内閣》でしょうか。先の王サウルのベニヤミン族がダビデに抱く怨念は深いものがあります。今の時代よりもっとすさまじい敵対関係があります。血で血を洗う闘争もありました。

 

 一方、ダビデとアブシャロムの悲劇は、ユダ族の、しかも王家の血縁関係、突き詰めれば単に親子関係のもつれです、そしてその絆の破綻と言えます。しかし単純ではありません。関係者を巻き込んでいきます。利害が絡まって行くからです。今回のアブシャロムの謀反は国中を巻き込み混乱させる迷惑千万な出来事でした。

 

 そのどさくさに乗じてベニヤミン族のシェバというものが、民心を巧みに操り扇動してダビデに反抗します。思わぬ伏兵です。聖書は『たまたまそこによこしまな者で名をシェバという者がいた』と書き出しています。「たまたま」という言葉が面白いです。シェバの謀反は深謀遠慮の末ではないのでしょう。しかし『すべてのイスラエル人は、ダビデから離れてシェバに従った』2節、のです。

 

 ダビデのそばにいるのはユダ族だけです。ダビデは、事件を重大視し、ヨアブに代わって長にしたアマサに三日のうちに全ユダ族を招集せよと命令します。ところがどうしたことかアマサは指定された期限に間に合わなかったのです。理由はわかりません。しかしあってはならないことです。重責を担う資格はないと言えます。アマサは着任早々に失態を演じたのです。

 

 そこへ登場したのがヨアブです。ヨアブはアブシャロムに直接手を下したことから、軍団の長を解任されてしまいました。しかし彼は無冠であってもダビデのそば近くにいたようです。ヨアブはすぐに昔取った杵柄を使ってかつての部下たちを集め、ともにシェバを追います。ダビデは黙認したのでしょう。

 

 ところがそこへかのアマサがやってきます。アマサの行動は理解できません。ヨアブは一突きでアマサを殺してしまいます。なぜ殺さねばならないのかそれもわかりません。ヨアブは過去にも直接、何人も殺しています。残忍な人のように思えますが、その殺人はダビデを助ける結果に繋がっているのも動かしがたい事実です。ヨアブは単に私利私欲で邪魔者を征伐しているのはなく、ダビデを助け王国を守っているともいえます。

 

 ヨアブの存在はダビデにとって、今風に言えばウザったいのですが、いないと困る人でもあるのです。ヨアブもまた、ダビデに一物ありながら、その人のそばにいるほかはない自分を知っているのかもしれません。 

 

 シェバの造反は、ヨアブの知恵で地域の人々の平穏な暮らしを犠牲にすることなく、シェバ一人だけが征伐されて収束します。こうしてヨアブはシェバの首を手土産にビデのもとに帰ります。この章の最後にダビデ内閣の顔ぶれが発表され、ヨアブは全軍の長に返り咲きます。その後のヨアブについては『列王記』で知ることになります。

20:52 | - | - | pookmark
サムエル記を愛して その41

サムエル記第二・第一九章  エルサレム帰還の途上で

 

 謀反とはあってはならない非常事態です。子が親に反逆するのを謀反と言うのか、いささか違和感がありますが、ダビデとアブシャロムの場合は、単なる親子の問題ではなく、国を二分するような公の事件だからでしょうか。謀反で有名なのは、信長の家臣明智光秀が起こした本能寺の変がありますが、裏切ったほうも裏切られた方も、表向き勝利したほうも負けたほうも支払う犠牲は大きいものがあるはずです。

 

 ダビデの場合、国中を動員して謀反人を征伐できたのですから、ダビデ側の大勝利といえます。勝利者は歓声をあげて凱旋できるのです。ところがダビデは、我が子の死を嘆いて泣き続けます。これでは命がけで戦った民は立つ瀬がありません。

 

 一番不服に思ったのはヨアブです。ヨアブがダビデの心を知りつつもアブシャロムを打ったのは、ひとえに王国のためでしょう。いつまでもダビデが取り乱していたら、民心はダビデから離れることは自明のことです。ダビデは民をねぎらい、速やかに都に入り元通り王座に着き、政務を執らねばならないのです。一国のリーダーなのですから。

 

 ヨアブはダビデに向かって怒りを込めた口調でなじります。5節から8節まで、ここまで言うかと思えるほど長々と非難します。『もし、アブシャロムが生き、われわれがみな、きょう死んだのなら、あなたの目にかなったのでしょう』6節、と、まるで捨て台詞です。

 

 あの、バテ・シェバ事件ではひとことも言わなかったヨアブですが、ここにきて、ダビデに愛想を尽かしたのかもしれません。堪忍袋の紐が切れたのかもしれません。一方でヨアブは、ダビデに、早く民の前に出て 労をねぎらうようにとのアドバイスを忘れません。この一言でダビデは目が覚めたかのように事後処理に向かいます。ダビデの本領が素早く発揮されます。

 

 ちょっと立ち止まって考えたいことは、ヨアブとは一体どんな人だったのか、です。太陽のような英雄ダビデのそばで、まるで影のように寄り添って支えてきた人なのです。その割には報われません。損な役割です。ダビデのそばに近づきすぎて、ダビデの欠点を知りすぎたかもしれません。それが不信感に繋がってしまうことは世間にはよくあることです。ヨアブこそ謀反を起こしたかったかもしれません。明智光秀のように。この後すぐに、ダビデはヨアブを更迭するのです。思えばヨアブは不運な人です。

 

 さて、ダビデはエルサレム帰還に際して、大義名分を立て、凱旋将軍並みの演出をします。まず、ユダの長老たちに出迎えるようにと告げさせます。全王国の前で威風堂々と都入りをして王たることを再確認させ、威信と信頼を集めたかったのでしょう。一時騒然とした王国も、大嵐は跡形もなく過ぎ去って、今や青空のもとに太陽のように輝く神の国ダビデ王国を民の目の前に見せ、納得させ、民心に安心と希望を与えたかったのでしょう。

 

 ヨルダンの対岸ギルガルは出迎えの群れで大賑わいです。ユダの人々に混じって、ダビデを罵倒したゲラの子シムイ、サウル家のツィバ、メフィボシェテ、八十歳のギルアデ人バルジライなど、これまでに登場したすべての人たちの顔が見えます。ダビデは大いに満足したでしょう。ところが、同じ王国の民でありながら、ユダ部族を除くイスラエルとユダとの間に些細なことから波乱を含んだ緊張が生じるのです。

 

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