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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2018.05.07 Monday - 21:05

サムエル記を愛して その17

サムエル記第一・第一九章 ダビデをねらうサウル王

 

 サウル王は最後の切り札である娘ミカルを使ってもダビデを追い落すことができません。息子はダビデ大好きの筆頭です。サウルの心中には殺意が煮えたぎっているのです。『ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた』1節。これが王でしょうか。

 

 ダビデがサウルに謀反を企てたとか、だれもが認める大罪を犯したならともかくも、王の感情だけの問題で一人の人を、それも有能な国家的英雄を亡き者にすると公言するのは全くおかしなことです。ヨナタンは父でありますが盲従してはいません。諄々と父の非を諌めます。このときはサウルは自分の非を認め、ダビデは再び王のそばで仕えます。

 

 しかし長くは持ちません。悪い霊に悩まされると槍を振り上げてダビデを殺そうとするのです。ついにダビデは逃亡します。妻のミカルがそれを手伝うのです。ミカルはダビデを愛していたのでしょう。父を欺いてダビデを逃がします。サウルは息子にも娘にも背かれるのですが同情の余地はありません。

 

 ダビデはついにラマにいるサムエルのもとに逃げていきます。ダビデは初めて気を許し、これまでのいきさつを話します。老いたサムエルはダビデには父親以上、慈愛に満ちた祖父のように思えたことでしょう。しかし、ダビデの居所を知ったサウルはなんども追っ手を遣わすのです。埒が明かないとわかると自ら出向いてくるのです。ここには神の民イスラエルの最高指導者としての姿は微塵も見えません。

 


  • 2018.04.17 Tuesday - 10:13

サムエル記を愛して その16

サムエル記第一・第一八章 ダビデを愛する人たち、妬みと敵意にかられるサウル王 

 

 死んだゴリヤテのかたわらで首を持って立っているダビデを見て、だれが事実だと信じたでしょう。サウル王にしてからが『あれは、だれの子か』とうわ言のようにくり返しています。つい数分前まで兄たちから『なにしにきたのだ』と邪魔者扱いされた羊飼いの少年ダビデは、今や国中の人気者、いや、敵側にまで知れ渡った英雄です。天から飛び降りてきた戦う天使ミカエルのようです。ダビデに心をときめかしたのは乙女たちだけではありませんでした。

 

 サウルの息子ヨナタンはダビデのファン第一号です。王の世継ぎ、王子ヨナタンがです。『ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは自分と同じほどにダビデを愛した』1節。以後、ヨナタンは自分の命をかけて何度もダビデの危機を救い、愛を全うします。

 

 ところが、英雄に試練はつきものですが、ダビデは一番愛されていいはずの王サウルに激しく嫉妬され、ねたまれることになります。《ねたみ》ほど恐ろしいものはありません。ダビデを凱旋将軍のように迎えた乙女たちが手に手に楽器をかき鳴らし『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』とはやしたてるのを聞くと『サウルは非常に怒り「彼にないのは王位だけだ」』と言って、その日以来、ダビデを疑いの目で見るようになった』9節。

 

 サウルはいつかダビデが自分に代わって王になることを感じたのでしょう、この思いは神がそっとサウルの心に入れたのかもしれません。サウルはダビデを戦いの前線に出して、いつ戦死してもいいように図ります。ところがダビデは行くところどこでも戦勝をあげます。負けを知らないダビデに、サウルはますます恐れおののくのです。主の霊はすでに彼を離れ、ダビデに激しく降っていたのですから、勝敗は明らかです。サウルは次第に重く心病むようになり、時に行動は常軌を逸し、ある時はダビデに槍を投げつけるのです。

 

 サウルの心は邪悪に満ち、姦計をめぐらします。王はダビデに、長女メラブを与えるから勇敢に戦えというのです。王の婿の地位を提供するのです。将軍以上の地位です。国の支配者になれる立場です。男としてこれを望まない者はいないでしょう。女性が王子様の花嫁に憧れるように、ダビデに男性シンデレラの夢があっても不思議ではありません。ダビデだけが特別に野望や功名心が強かったわけでもないでしょう。

 

 ダビデはその気になり、たぶん結婚の準備も具体的に進められていたでしょうに、その直前でサウルは約束を反故にしてメラブを他の人に嫁がせてしまいます。周囲も知っていたでしょうし、当のメラブにショックを与えなかったはずはありません。メラブは国中の乙女たちの熱い羨望を一身に浴びて得意の絶頂に立っていたはずです。もしかしたらメラブは花嫁衣装に身を包んでいた時だったかもしれません。婚宴の直前でひそかに連れ去られたのかもしれません。

 

 これが実の娘にすることでしょうか。サウルは父親でしょうか。メラブがダビデを慕っていたことは当然知っていたはずです。ところが続いて『サウルの娘ミカルはダビデを愛していた』20節、とあります。破廉恥な出来事に続く一節は意味深長です。サウルはまたも娘の乙女心を利用してダビデを殺害しようと企みます。ダビデは真正面からサウルの難題をクリヤー、婿資格テストに合格し、みごとにミカルを妻にします。

 


  • 2018.03.18 Sunday - 20:35

サムエル記を愛して その15

サムエル記第一・第一七章 ダビデとゴリヤテの一騎打ち

 

 聖書中、これほど痛快な個所は他にはないでしょう。すぐにビジュアル化できそうです。無名の少年ダビデが、名だたる職業軍人、だれひとり手向かうことのできないペリシテの戦士を、石ころ一個でとどめを刺してしまうのです。出来事の順を追ってみましょう。

 

 今度の戦いの相手はペリシテ人です。『聖絶』事件の相手はアマレクでした。

 イスラエルとペリシテは谷一つ隔てた山の両側に陣を敷いています。双方にらみ合いというところでしょうか。互いの動きも声も手に取るようにわかる距離です。ほんの小さなきっかけでも起きれば、またたく間に一大戦闘になること必定です。ペリシテの陣営には、ゴリヤテという巨人の戦士がいて、毎日大声でイスラエルを挑発します。一騎打ちをしようじゃないか、一人を出せというのです。三メートル近い身長があり、五五キロほどの青銅のよろいを着こんでいます。イスラエルはこのひとりの出現にさえ震え上がっています。サウル王もじりじりしていたことでしょう。

 

 そこへ、ダビデがあられます。彼は戦士にもなれない少年です。相変わらず父の羊の番をしています。上の兄たち三人が出陣しています。父エッサイはイスラエル軍と息子たちの様子が知りたくてたまりません。ダビデに、支援物資を持たせて安否を問うために遣わします。

 

 ちょうどダビデが陣地についたとき、ゴリヤテが大声で例のごとくイスラエル軍をあざけりなぶっているところでした。ダビデはその罵声を聞いたのです。ダビデは火の中に飛び込んだように体中が燃え上がりました。義憤です。彼は『生ける神の陣をなぶるとは』26節、とあたりかまわず叫びます。ダビデにとってはイスラエルの軍は神の軍です、イスラエルを侮辱することは、愛する神を侮辱することなのです。ダビデの内にはすでに激しく主の霊が降っています。ダビデの内なる主の霊が働き出しているのです。

 

 ダビデは大胆にもサウル王に『このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう』32節、と言います。だれが見てもダビデはまだ少年です、だれが聞いても吹き出してしまうようなたわごとなのです。サウルも、子どもに言い聞かせるように、無理だよというのです。ところがダビデは真剣そのものです。あまりの気迫にサウルも自分のよろいを着せて行かせます。せめてものあわれみでしょう。

 

 一方、ゴリヤテはようやく一騎打ちの相手が出てきたと気をよくして、見ればなんと子どもです。よろいもつけず剣もなく、おもちゃにも等しい石投げ器一つです。このときのゴリヤテの心境はどうだったのでしょう。自尊心を傷つけられてかなり怒っていたでしょう。しかし戦意はゼロに近かったでしょう。

 

 ダビデは全身戦意に満ちあふれています。『万軍の主の御名によっておまえに立ち向かうのだ』45節と、視線を上にあげて大男を睨みつけます。ゴリヤテがダビデを踏みつぶさんと近づいてきた時、ダビデは日ごろ使い慣れている石投げで、河原から拾ってきた石を挟んでゴリヤテめがけて放ちます。石はゴリヤテの額に命中し、額に食い込み、うつぶせに倒れて息絶えるのです。『こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った』50節。

 

 今や、ダビデは戦場のヒーローです。


  • 2018.02.23 Friday - 08:49

サムエル記を愛して その14  

サムエル記第一・第一六章 エッサイの八番目の息子、羊飼いダビデの登場

 

 この章からダビデの名前が見えてきます。父エッサイの手伝いをして羊を飼う少年ダビデです。待望のダビデ登場です。読者にはすでに立琴を奏でながら羊の番をする紅顔の美少年ダビデのイメージが強く焼き付いています。この印象は詩篇の賛歌と相まって、消えることはありません。

  一方、サウル王は、神への不従順のために王の座から外されてしまいます。神はすでに次の王を考えておられます。サウルの知らないところでご計画は着々と進められます。

 

 神からのことばを預かり、それを民に告げ、あるいはそのおことばを実行していくサムエルの役目はつらく厳しく苦しいものです。神はご自分の決めた人に油を注げと言いつけますが、サムエルは『サウルが聞いたら私を殺すでしょう』2節、と訴えます。サムエルの言い分はもっともです。しかしサムエルは神の言いつけどおりに従います。

 

 サムエルはベツレヘムへ出かけて町の長老たちを招き、いけにえをささげます。これは異例のことなので長老たちは不安になり、なにか特別の事情があると察します。サムエルはその席にエッサイと息子たちを招きます。七人の息子たちがサムエルの前に並び、油を注がれようとしています。町の長老たち、エッサイと息子たちは何事が始まるのか見当もつかず呆然としていたことでしょう。

 

 七人がサムエルの前に紹介されましたが、サムエルは手にした油の壺を傾けようとしません。主からの指図がありません。全員ノーです。おかしいです、神はあらかじめエッサイの息子の中に『わたしのために、王を見つけたから』1節と、言っておられます。

 

 サムエルはエッサイに子どもたちはこれで全部かと尋ねます。エッサイは『末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています』11節、と答えます。父親の目から見ても、ダビデは人前に紹介できるような一人前の息子ではなく末っ子の子どもなのです。しかしサムエルは神のおことばに忠実です。すぐにダビデを呼んでこさせます。

 

『さあ、この者に油をそそげ』12節、神の一声がかかります。サムエルはダビデの頭になみなみと油を注ぐのです。兄弟たちの真ん中、ベツレヘムの人々の真ん中でのことです。これは後々どんな意味を持つのでしょう。

 

 その日以来、『主の霊が激しくダビデの上に下り』13節、ます。ダビデは神から選ばれたのです。『人はうわべを見るが、主は心を見る』7節、にあるように、これは主のなさった不思議です。人間の側の価値判断を越えた主の選びです。『わたしがあなたがたを選び』ヨハネ15・16なのです。ダビデは愛すべき少年ですが、まだ、ただの人です。後年、ダビデが目覚ましく大活躍するのは『主の霊が激しく下った』ためです。

 

 サウルは、王になる時に与えられた主の霊はすでに取り去られてしまったのか、悪い霊に苦しめられ恐怖に怯えています。哀れな王様ではありませんか。家来たちは見かねて音楽療法を進めます。家来はダビデを『琴がじょうず勇士であり戦士です。ことばには分別があり、主がこの人とともにおられます』18節、と推薦するのです。

 こうしてダビデはサウルの具合が悪くなると、羊の番から離れて急いでサウルのところに駆けつけて琴を奏でます。なんとも奇妙な関係ではありませんか。

 


  • 2018.01.24 Wednesday - 09:32

サムエル記を愛して その13  

サムエル記第一・第一五章  出エジプト以来の宿敵アマレク討伐

 

 サウル王は数々の政策ミスにもかかわらず主のあわれみによって周辺の外敵を追いちらし、一国の王としての実力をつけていきます。その間、何年が経過したかわかりませんが、ある時、サムエルは改まってサウルに新しい預言を伝えます。サムエルは相変わらず神が信頼する預言者なのです。王様も従わねばなりません。主のおことばは以下の通りです。

 

『わたしはイスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ』2、3節。

 

 非常に厳しい命令です。【聖絶】という、現代でも物議を醸しだす戦いの命令です。神は出エジプト時代の数百年昔に、アマレクがイスラエルの民のカナン進行を妨害したことを覚えておられ、サウルにその決着を付けよと命じるのです。

 

 サウルは神の命に従って民の先頭に立ち、アマレクを聖絶します。ところがサウルは実際には【聖絶】の命に従わなかったのです。敵の王アガグは生け捕りにし、動物は価値のないものだけを殺し、値打ちのあるものは残します。サウルには【聖絶】の意味が分かっていないのでしょうか。

 

 これを見た神はサムエルに『わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかった』11節、と嘆き悔むのです。ところがサウルはサムエルに会うと意気揚々と『私は主のことばを守りました』と戦勝を報告し、自分のために勝利の記念碑を建て、分捕りものの最上のものは主にささげるためだと言います、21節。

 サムエルは言います。

『主は【主】の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。

見よ聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる』22節。サウルのしたこと

は信仰ではなかったのです。サウルが【聖絶】の意味を知らなかったはずはありません。ではどうしてこんな大罪をおかしたのでしょうか。

 

 それは明白です。サウルはサムエルに弁解します『私は罪を犯しました。私は、民を恐れて、彼らの声に従ったのです』24節。さらに『私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください』30節。 

 

 サウルは栄光のイスラエルの王にしてはあまりにお粗末です。神は悔やみ、サムエルは怒ります。どうしてこんなことになったのでしょう。なぜ最初からもっと適した人を選ばなかったのでしょう 聖書を外側から読むだけの放言、批判ですが、こんなことが言えると思います。

 

 聖絶にしたって、ささげものにしたって、当時だけでなく現代の信仰者でも突き詰めればサウルと同じことをしているのです。献金や奉仕を惜しみます。人の顔色を見て信仰態度を変えます。神よりも人の目や評価を優先するのです。突き詰めれば、自己のためです。自己中心なのです。サウル王は私であり、あなたなのです。尊敬できない愚王サウルを用いて神の発信するメッセージを聴き取りたいと思います。

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  • 2017.12.26 Tuesday - 17:21

サムエル記を愛して その12  

サムエル記第一・第十四章 ヨナタンの冒険

 

 サウル王の息子のヨナタンの名が出てくると、にわかに頬が緩みほほえみたくなります。愛すべきヨナタン、サウルの息子とは思えない美しきヨナタンはダビデ以上に安心して好意を寄せられる聖書中最高の人です。ヨナタンは決して読者を裏切りません。この十四章は五二節もあって長く大きな章です。ヨナタンは一節からさっそうと登場します。

 

 イスラエルとペリシテの両者が陣を敷き、いつなんどき戦いが起こるかもわからない緊張状態のさなかで、ヨナタンは若者一人だけを連れて敵の戦陣へ進んでいきます。ゲリラ戦術でしょう。ヨナタンは従者に『主がわれわれに味方してくださるであろう。少人数であっても、……、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない』6節、というのです。命知らず、無謀とも見えますが、神への一直線の信頼はまぶしいほどです。

 

 二人はそそり立つ絶壁をよじ登って敵の先陣の狭い場所で二十人ほどを打ち倒します。この騒ぎがペリシテ全軍に津波のように伝わり全軍が大きなパニックに陥ります。その状況を見たイスラエル軍は好機到来とばかりサウルを先頭にペリシテの陣地に切り込み、大勝利を納めます。ひさびさの勝利ですが、受動的な勝利ともいえます。勝利の発端は、勇敢なヨナタンと従者の若者二人が開いたのです。二人の手柄によるものです。聖書は『主はイスラエルを救い』23節と明記します。

 

 ところがここでまた奇妙なことが起こります。サウルは一日断食して戦えと命じたのです。俗に《腹が減ってはいくさはできぬ》といわれるほど、戦いには体力が要ります。十分な腹ごしらえは不可欠です。それを、よりによって断食を命ずるとは、サウルには胃袋がないのでしょうか。大勝利をしたのですから、リーダーたるものは気前よくごちそうを振舞って部下をねぎらうべきでしょう。

 

 民は空腹と疲労でへとへとです。勝ち戦も喜べません。とうとう我慢が出来なくなり分捕りものに飛びかかって手当たり次第に食べてしまいます。血の付いたままでもお構いなしです。その気持ちもわかります。ヨナタンは父サウル王の断食令を知らなかったものですから、森の中にしたたっているはちみつを杖の先ですくって口に入れます。ヨナタンの疲れが一変に解消したことは言うまでもありません。

 

 サウルは不機嫌です。血の付いたままで食べて主に罪を犯してはならないと、正式に屠って食べる指示を改めて出します。さらにすぐにでも戦闘を続けるつもりでしたが祭司にたしなめられて、祭司が神意を伺います。ところが神は沈黙されたのです。

 

 さあ、サウルはそれを民の中にある罪のせいにします。最終的に、罪は断食令に違反したヨナタンにありました。サウルは言います『おまえは必ず死ななければならない』44節。サウルは悲壮で大真面目でしょうが、なぜか共感できません。ちぐはぐな思いになります。これはどこから来るのでしょうか。サウルの政策?には統一性がないのです。今風に言うと、ぶれているのです。あるところはいやに律法的ですが、あるところは自己判断です。それが読者を混乱させ不安にさせ、彼への信頼を薄めてしまうのではないでしょうか。ヨナタンは冷静なる賢明なる民のとりなしによって一命を取り留めます。愚かな父によって、あたら命を落とすところでした。


  • 2017.11.28 Tuesday - 07:31

サムエル記を愛して その11  

サムエル記第一・第十三章 サウル王の大罪

 

『サウルは三十歳で王となり、十二年間イスラエルの王であった』1節。

 イスラエルに王が立てられ軍隊が編成されているとの情報はいち早くペリシテにも知れ渡ったことでしょう。サウルの息子ヨナタンがペリシテの守備隊長を打ち殺したことからペリシテ人はいっせいに戦闘準備をしてミクマスに陣を敷きます。その様子は手に取るようにイスラエルに伝わってきます。再び残忍非道なペリシテの蹂躙を受けるのかと思うと、人心は激しく動揺します。人々は身の安全を求めて国中に逃げ隠れます。

 

 サウルと兵士たちはサムエルの言いつけに従ってギルガルにとどまっていますが、彼らもまた恐怖のために震え上がっています。目の前に自分たちが担ぎ上げた王サウルがいるにもかかわらず、士気は衰え、かえって隙あらば逃亡したいほどなのです。当のサウルも不安と焦燥に駆られています。サムエルが来ないからです。約束の「七日間」が過ぎても来ないのです。サムエルがなぜ約束を守らなかったのかは、謎です。

 

 恐慌状態に陥ったサウルは、祭司職の特権であるいけにえを、自分でささげてしまうのです。大いなる越権行為です。王様は祭司ではないのです。これほどの大きな罪はありません。あまりに大きい判断ミスです。

 直後に到着したサムエルは開口一番『あなたはなんということをしたのか』11節、と攻め寄り、『あなたは愚かなことをしたものだ。今は、あなたの王国は立たない』とまで断言します。最初から『あなたの王国は立たない』とは、気の毒にさえ思えます。しかも『主はご自分の心にかなう人を求め、ご自分の民の君主に任命しておられる』14節、とさえ言い切ります。

 

 思えば、イスラエルの歴史に初めて王様が登場することになり、読者としては、王様についてメルヘンチックな既成概念があるせいか、強き勇ましい王が華々しく活躍する姿を思い描きます。ところがサウルに限っては当てはまりません。そもそも、王様を求める人心は神の嘆きとなり、神の本意ではないのです。かといって神は主権を持って拒否するのではなく、民の願いを聞き入れて『王を立てよ』と許可したのでサウルが選出されたのです。サウルが強引に王権を奪ったわけではないのです。サウル自身もうろたえ、しぶしぶ王座に着いたように思えます。それなのに早々から『あなたの王国は立たない』とは、むごいように思えます。

 

 しかし、あまり人間的な低レベルの情を寄せるのはよくないかもしれません。一つ思い当たることは、サウルには『主の霊が激しく下った』ことです。サウルは新しい人に、王にふさわしい人に、神によって変えられたのです。その特権と威力が発揮されていないのです。王とはなんぞやが、認識され自覚されていないのです。王といえども神の前に絶対にしてならないことがあるのです、その境目を厳密にわきまえることこそ、公人と言えるのではないでしょうか。この後も、サウルは独断から来る判断ミスを起こします。

 

 それはどこから来るのでしょうか、サウルの性格の弱さでしょうか。傲慢と自己保身、つまり自己中心が最大の原因でしょう。もちろん机上でサウルを裁くのは簡単ですが、しかし、どうみても彼は不適当な人、そして悲劇の人です。


  • 2017.11.08 Wednesday - 12:09

サムエル記を愛して その10  

サムエル記第一・第十一章 サウル初戦大勝利 神の前での王権設立

 

 イスラエルの外敵の一つであるアモン人が、国境近くのヤベシュ・ギルアデの人々に攻撃の構えを見せてきました。ヤベシュの人々はサウルの所に来て事の次第を伝えます。聞いたとき『神の霊がサウルの上に激しく下った』6節。サウルは激しい闘志に燃え、全イスラエルに徴募の号令を掛けます。単にサウル一人の熱心ではありません。神がサウルの心に働きかけたのです。サウルは今や自分が王に立てられたことを自覚したのです。ぞくぞくと人々がサウルのもとに集結します。この様子を聞いたヤベシュの人々は大喜びします。彼らは残虐なアモン人から救われることに期待したのです。

 

 サウルは兵の先頭に立ち、勇ましく指揮をふるってアモン人の陣営に突入し、壊滅に追い込みます。イスラエルの大勝利です、サウルは初陣で大手柄を立てたのです。

 すかさずサムエルは民に云います。『ギルガルへ行って、王権を創設する宣言をしよう』14節。サムエルはこの時を神の好機と判断したのでしょう。今や、サウルは民からの全幅の信頼を得たのですから。

 ギルガルで主の前にいけにえをささげ、正式にサウルを王とするのです。さしずめ戴冠式といえましょう。こうして、イスラエルは民族集団から王制の国家へと新しい歩みを始めます。サウルも民も有頂天です。しかし、王を立てることはそもそも神のみ心を痛め、サムエルを不快にしたマイナス旋律から始まっていることは忘れてはならないことです。

 

サムエル記第一・第十二章 サムエルの引退説教  

 

 イスラエルは、神と民の前で正式に王制を発足させ、まだ宮殿はなかったにしても、サウルは押しも押されぬ初代の王位に着きました。イスラエル国家が誕生したのです。しかし国家といっても現代とは違って神政国家です。最高主権は神にあります。王を選ぶのは神です。サウル選出にはくじが使われましたが、くじにこそみこころが現れています。

 サムエルは大役を果たしました。士師(さばきつかさ)の役割のひとつ、政治や軍事の役割は終了です。しかし預言者としては最高峰に位置し、民はひとえにサムエルを信頼しています。若葉マークの王サウルも彼を差し置くようなまねはできません。

 

 サムエルは民の前で、これまでの自分の働きを総括します。若い時から白髪の今日まで先頭に立って歩んできたがもし不正をしていたら申し出てほしい、償いをするからと。さらに出エジプトからカナン定住までを物語り、安らかに暮らせたのは神の救いによるのだと、イスラエルの神を強調します。その神を二の次にして王を求めたのは罪だと言い切るのです。たった今、王制が始まったばかりなのに罪だと断罪するのは言い過ぎではないかとさえ思います。サウルはどんな思いで聞いたでしょう。王の椅子も座り心地はよくなかったでしょう。

 

 その時、乾期には降らない激しい雷雨があり、民は震え上がって神とサムエルの真意を悟ります。そこでサムエルはこれからも祈り続けるから、あなたがたも『ただ主を恐れ、心を尽くして主に仕えなさい』と切々と言い聞かせます。引退説教といえましょう。


  • 2017.10.21 Saturday - 11:33

サムエル記を愛して その9  

サムエル記第一・第九章 サムエルとサウルとの出会い

 

 この章からサムエル記の風景はがらりと一変します。馴染みのない新人が登場します。

『ベニヤミン人で、その名をキシュという人がいた。キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った』1、2節。

 

 読者には、ああ、このサウルという人がキーパーソンだな、たぶんイスラエルの初代の王になる人に違いないと推測が出来ます。そんな書き出しです。しかし、サムエルが仲介者になるはずですから、見知らぬ二人がどのようにして出会い、どんなプロセスを得て、国中の人がサウルを王として認めるようになるのか、そこに興味が沸いてきます。

 

『王を立てよ』とは神様のご命令ですから、しばらくは神さまが直接に事態を引っ張っていくことになると、それも推察できます。はたして、その通り神様は日常生活の出来事を通してサムエルとサウルの出会いを創ります。その不思議な道のりを追ってみます。

 

 サウルは父の言いつけで行方不明の雌ろばを探しに行く→従者の助言で町の預言者に訊くことにする→ちょうどサムエルが来ることになっていた→サウルとサムエルの初対面(主はサムエルにサウルが来ることを前日に告げていた)→サムエルはサウルこそが選ばれた王であることを確認→サウルはもてなしを受けサムエルと会食。

 

 サムエルとサウルが町の有力者たちの前で食事の席に着いたことで、サウルが特別な人であることが人々に知れ渡ります。神の道備えに深い配慮を感じます。

 

サムエル記第一・第十章 公認される初代の王サウル

 

 神は慎重にことを進めます。一見、あまり興味をそそられない記事が続きますので、ちょっとたいくつを覚えますが、まず、サウル自身が、自分は神から選ばれた王になることと、民が無名の若者が自分たちの王になることを納得するのは容易ではありません。現代のように世界の隅々まで自宅に居ながらにしてしかも映像で見ることができ、多くの解説を聞ける時代とは天と地ほど違います。

 

 神様は人心をよく御存じで、忍耐強く慎重に一つ一つていねいにことを進めます。

 サムエルはひそかにサウルに油を注いで『主が民の君主として、あなたに油をそそがれた』1節、と告げます。ところが、サウル自身も寝耳に水のことなので混乱します。納得して受け入れるまでには段階が要るのです。何よりもこのことが神から出たことだとわかるために、サムエルはサウルがその日一日に起こることを詳細に予言します。その通りに、ギブアでサウルは激しい主の霊を体験し、周囲の人がいぶかるほどに変えられます。

 

 一方サムエルはミツパにイスラエルを招集し、神は民の要求通り、イスラエルに王を立てることを許されたから、これからくじを使って王を決めると宣言します、19節。

 

 十二部族は部族ごとにくじを引くと、ベニヤミン族が取り分けられ、ついにキシュの子サウルに白羽の矢が立つのです。サムエルは万民の前で『見よ。主がお選びになったこの人を』と叫んでサウルを名指し紹介します。それに対して民はいっせいに『王さま ばんざい』24節、と歓声をあげてサウルを認めます。


  • 2017.10.04 Wednesday - 16:54

サムエル記を愛して その8

しばらく間が空いてしまいました。大きなイベントに参加したり、

その後夏バテに見舞われて体調不良が続きました。

10月の声を聞いて、心身が立ち上がってきました。

これに懲りずにお立ち寄りくださいませ。

 

 

サムエル記第一・第八章 晩年のサムエルと王制を求める民の声

 

 この章のどこに希望の光が見えるでしょうか。神の恵みを探せるでしょうか。読んでいて気がふさいできます。民と神とサムエルのそれぞれの悩み苦しみ、失望が激しくぶつかり合っています。元凶は人心の変化です。世俗化です。民はサムエルと後継の息子たちに飽き足りず、神の愛による統治の手を払いのけ、王制を求めたのです。族長ではなく士師でもなく、王様を求めたのです。神信仰は二の次で、政治的軍事的支配者を求めたのです。   

イスラエルの歴史にはなかった新しい発想が民の中に生まれ、民はそれを主張したのです。確かにサムエルは民の先頭に立つにはあまりに年老いて頼りなげに見えたのでしょう。跡継ぎの息子たちは語るに足らず、悪事を重ねるばかりでした。民の怒りや失望ももっともです。先頭に立つ者があまりに不適格なら政権を交代してもらうばかりです。

 

『今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください』5節。こんなにあからさまに自分と息子たちを拒否されてはサムエルも立つ瀬がありません。『そのことばはサムエルの気に入らなかった』6節。サムエルは不愉快なのです。傷ついてしまったのでしょう。サムエルは晩年になって人生の無常風に曝されました。

 

 一人では抱えきれない重荷を、サムエルは主のみ前に持ち出します。サムエルは祈る人です。単に個人の憂いではない、神の民イスラエルの一大事です。このことを神はなんとおぼし召すのか。サムエルは私情を置いて預言者として士師として、主に祈るのです。意外や意外、神からはサムエルの思いを越えた答えがありました。『この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ』7節、なのです。神は、サムエルの心情をくみ取り、切々と慰めるように言い聞かせます。この民はあなたを退けたのではない、わたしを、神を、退けたのだ、出エジプト以来、彼らのした事といえば、わたしを捨ててほかの神々に仕えたことだけだったと。サムエルより先に失望し嘆いていたのは神なのです。

 

 神はため息の塊のようなお心の内を語ります。まるで被害者の先輩と後輩の分かち合いのようです。しかし神は同病相哀れむにとどまるお方ではありません。預言者サムエルに、王とは何か、王は民に何を求めるのか、そのきびしい義務を残らず告げ知らせよと命じます。

 

 サムエルは、王制とは王の奴隷になって軍務に服すること、畑や家畜の収穫の十分の一を納税すること、家族、使用人を労働力として提供することなど、今までになかった過大な義務を負うことになると告げ、それでも王がほしいかと民に迫ります。民はそれだけ聞かされてもなお『いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません』19節。しっかり語った神のことばとしっかり受けた民の言葉は神に受け入れられました。ついに神はおおせられました『彼らにひとりの王を立てよ』22節。

 

 さあ、鶴の一声、いや、神の一声です。以後、イスラエルは王制を導入し、軍事国家の色あいを濃くしていきます。しかし、王を選ぶのは神です。まだ神による政治国家、神政政治です。この後、王位は継承されていくことになります。イスラエル始まって以来の方向転換にあたって、最初の王になる人はだれでしょう。サムエルは早く言えば強制引退です。新しい王を指名して座を譲ることになります。

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