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みんなのブログポータル JUGEM

聖書の緑風

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
神のことばである聖書に教えられたことや感じたことを綴っていきます。
聖書には緑陰を吹きぬける爽風のように、いのちと慰めと癒し、励ましと赦しと平安が満ち満ちているからです。
  • 2017.11.28 Tuesday - 07:31

サムエル記を愛して その11  

サムエル記第一・第十三章 サウル王の大罪

 

『サウルは三十歳で王となり、十二年間イスラエルの王であった』1節。

 イスラエルに王が立てられ軍隊が編成されているとの情報はいち早くペリシテにも知れ渡ったことでしょう。サウルの息子ヨナタンがペリシテの守備隊長を打ち殺したことからペリシテ人はいっせいに戦闘準備をしてミクマスに陣を敷きます。その様子は手に取るようにイスラエルに伝わってきます。再び残忍非道なペリシテの蹂躙を受けるのかと思うと、人心は激しく動揺します。人々は身の安全を求めて国中に逃げ隠れます。

 

 サウルと兵士たちはサムエルの言いつけに従ってギルガルにとどまっていますが、彼らもまた恐怖のために震え上がっています。目の前に自分たちが担ぎ上げた王サウルがいるにもかかわらず、士気は衰え、かえって隙あらば逃亡したいほどなのです。当のサウルも不安と焦燥に駆られています。サムエルが来ないからです。約束の「七日間」が過ぎても来ないのです。サムエルがなぜ約束を守らなかったのかは、謎です。

 

 恐慌状態に陥ったサウルは、祭司職の特権であるいけにえを、自分でささげてしまうのです。大いなる越権行為です。王様は祭司ではないのです。これほどの大きな罪はありません。あまりに大きい判断ミスです。

 直後に到着したサムエルは開口一番『あなたはなんということをしたのか』11節、と攻め寄り、『あなたは愚かなことをしたものだ。今は、あなたの王国は立たない』とまで断言します。最初から『あなたの王国は立たない』とは、気の毒にさえ思えます。しかも『主はご自分の心にかなう人を求め、ご自分の民の君主に任命しておられる』14節、とさえ言い切ります。

 

 思えば、イスラエルの歴史に初めて王様が登場することになり、読者としては、王様についてメルヘンチックな既成概念があるせいか、強き勇ましい王が華々しく活躍する姿を思い描きます。ところがサウルに限っては当てはまりません。そもそも、王様を求める人心は神の嘆きとなり、神の本意ではないのです。かといって神は主権を持って拒否するのではなく、民の願いを聞き入れて『王を立てよ』と許可したのでサウルが選出されたのです。サウルが強引に王権を奪ったわけではないのです。サウル自身もうろたえ、しぶしぶ王座に着いたように思えます。それなのに早々から『あなたの王国は立たない』とは、むごいように思えます。

 

 しかし、あまり人間的な低レベルの情を寄せるのはよくないかもしれません。一つ思い当たることは、サウルには『主の霊が激しく下った』ことです。サウルは新しい人に、王にふさわしい人に、神によって変えられたのです。その特権と威力が発揮されていないのです。王とはなんぞやが、認識され自覚されていないのです。王といえども神の前に絶対にしてならないことがあるのです、その境目を厳密にわきまえることこそ、公人と言えるのではないでしょうか。この後も、サウルは独断から来る判断ミスを起こします。

 

 それはどこから来るのでしょうか、サウルの性格の弱さでしょうか。傲慢と自己保身、つまり自己中心が最大の原因でしょう。もちろん机上でサウルを裁くのは簡単ですが、しかし、どうみても彼は不適当な人、そして悲劇の人です。


  • 2017.11.08 Wednesday - 12:09

サムエル記を愛して その10  

サムエル記第一・第十一章 サウル初戦大勝利 神の前での王権設立

 

 イスラエルの外敵の一つであるアモン人が、国境近くのヤベシュ・ギルアデの人々に攻撃の構えを見せてきました。ヤベシュの人々はサウルの所に来て事の次第を伝えます。聞いたとき『神の霊がサウルの上に激しく下った』6節。サウルは激しい闘志に燃え、全イスラエルに徴募の号令を掛けます。単にサウル一人の熱心ではありません。神がサウルの心に働きかけたのです。サウルは今や自分が王に立てられたことを自覚したのです。ぞくぞくと人々がサウルのもとに集結します。この様子を聞いたヤベシュの人々は大喜びします。彼らは残虐なアモン人から救われることに期待したのです。

 

 サウルは兵の先頭に立ち、勇ましく指揮をふるってアモン人の陣営に突入し、壊滅に追い込みます。イスラエルの大勝利です、サウルは初陣で大手柄を立てたのです。

 すかさずサムエルは民に云います。『ギルガルへ行って、王権を創設する宣言をしよう』14節。サムエルはこの時を神の好機と判断したのでしょう。今や、サウルは民からの全幅の信頼を得たのですから。

 ギルガルで主の前にいけにえをささげ、正式にサウルを王とするのです。さしずめ戴冠式といえましょう。こうして、イスラエルは民族集団から王制の国家へと新しい歩みを始めます。サウルも民も有頂天です。しかし、王を立てることはそもそも神のみ心を痛め、サムエルを不快にしたマイナス旋律から始まっていることは忘れてはならないことです。

 

サムエル記第一・第十二章 サムエルの引退説教  

 

 イスラエルは、神と民の前で正式に王制を発足させ、まだ宮殿はなかったにしても、サウルは押しも押されぬ初代の王位に着きました。イスラエル国家が誕生したのです。しかし国家といっても現代とは違って神政国家です。最高主権は神にあります。王を選ぶのは神です。サウル選出にはくじが使われましたが、くじにこそみこころが現れています。

 サムエルは大役を果たしました。士師(さばきつかさ)の役割のひとつ、政治や軍事の役割は終了です。しかし預言者としては最高峰に位置し、民はひとえにサムエルを信頼しています。若葉マークの王サウルも彼を差し置くようなまねはできません。

 

 サムエルは民の前で、これまでの自分の働きを総括します。若い時から白髪の今日まで先頭に立って歩んできたがもし不正をしていたら申し出てほしい、償いをするからと。さらに出エジプトからカナン定住までを物語り、安らかに暮らせたのは神の救いによるのだと、イスラエルの神を強調します。その神を二の次にして王を求めたのは罪だと言い切るのです。たった今、王制が始まったばかりなのに罪だと断罪するのは言い過ぎではないかとさえ思います。サウルはどんな思いで聞いたでしょう。王の椅子も座り心地はよくなかったでしょう。

 

 その時、乾期には降らない激しい雷雨があり、民は震え上がって神とサムエルの真意を悟ります。そこでサムエルはこれからも祈り続けるから、あなたがたも『ただ主を恐れ、心を尽くして主に仕えなさい』と切々と言い聞かせます。引退説教といえましょう。


  • 2017.10.21 Saturday - 11:33

サムエル記を愛して その9  

サムエル記第一・第九章 サムエルとサウルとの出会い

 

 この章からサムエル記の風景はがらりと一変します。馴染みのない新人が登場します。

『ベニヤミン人で、その名をキシュという人がいた。キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った』1、2節。

 

 読者には、ああ、このサウルという人がキーパーソンだな、たぶんイスラエルの初代の王になる人に違いないと推測が出来ます。そんな書き出しです。しかし、サムエルが仲介者になるはずですから、見知らぬ二人がどのようにして出会い、どんなプロセスを得て、国中の人がサウルを王として認めるようになるのか、そこに興味が沸いてきます。

 

『王を立てよ』とは神様のご命令ですから、しばらくは神さまが直接に事態を引っ張っていくことになると、それも推察できます。はたして、その通り神様は日常生活の出来事を通してサムエルとサウルの出会いを創ります。その不思議な道のりを追ってみます。

 

 サウルは父の言いつけで行方不明の雌ろばを探しに行く→従者の助言で町の預言者に訊くことにする→ちょうどサムエルが来ることになっていた→サウルとサムエルの初対面(主はサムエルにサウルが来ることを前日に告げていた)→サムエルはサウルこそが選ばれた王であることを確認→サウルはもてなしを受けサムエルと会食。

 

 サムエルとサウルが町の有力者たちの前で食事の席に着いたことで、サウルが特別な人であることが人々に知れ渡ります。神の道備えに深い配慮を感じます。

 

サムエル記第一・第十章 公認される初代の王サウル

 

 神は慎重にことを進めます。一見、あまり興味をそそられない記事が続きますので、ちょっとたいくつを覚えますが、まず、サウル自身が、自分は神から選ばれた王になることと、民が無名の若者が自分たちの王になることを納得するのは容易ではありません。現代のように世界の隅々まで自宅に居ながらにしてしかも映像で見ることができ、多くの解説を聞ける時代とは天と地ほど違います。

 

 神様は人心をよく御存じで、忍耐強く慎重に一つ一つていねいにことを進めます。

 サムエルはひそかにサウルに油を注いで『主が民の君主として、あなたに油をそそがれた』1節、と告げます。ところが、サウル自身も寝耳に水のことなので混乱します。納得して受け入れるまでには段階が要るのです。何よりもこのことが神から出たことだとわかるために、サムエルはサウルがその日一日に起こることを詳細に予言します。その通りに、ギブアでサウルは激しい主の霊を体験し、周囲の人がいぶかるほどに変えられます。

 

 一方サムエルはミツパにイスラエルを招集し、神は民の要求通り、イスラエルに王を立てることを許されたから、これからくじを使って王を決めると宣言します、19節。

 

 十二部族は部族ごとにくじを引くと、ベニヤミン族が取り分けられ、ついにキシュの子サウルに白羽の矢が立つのです。サムエルは万民の前で『見よ。主がお選びになったこの人を』と叫んでサウルを名指し紹介します。それに対して民はいっせいに『王さま ばんざい』24節、と歓声をあげてサウルを認めます。


  • 2017.10.04 Wednesday - 16:54

サムエル記を愛して その8

しばらく間が空いてしまいました。大きなイベントに参加したり、

その後夏バテに見舞われて体調不良が続きました。

10月の声を聞いて、心身が立ち上がってきました。

これに懲りずにお立ち寄りくださいませ。

 

 

サムエル記第一・第八章 晩年のサムエルと王制を求める民の声

 

 この章のどこに希望の光が見えるでしょうか。神の恵みを探せるでしょうか。読んでいて気がふさいできます。民と神とサムエルのそれぞれの悩み苦しみ、失望が激しくぶつかり合っています。元凶は人心の変化です。世俗化です。民はサムエルと後継の息子たちに飽き足りず、神の愛による統治の手を払いのけ、王制を求めたのです。族長ではなく士師でもなく、王様を求めたのです。神信仰は二の次で、政治的軍事的支配者を求めたのです。   

イスラエルの歴史にはなかった新しい発想が民の中に生まれ、民はそれを主張したのです。確かにサムエルは民の先頭に立つにはあまりに年老いて頼りなげに見えたのでしょう。跡継ぎの息子たちは語るに足らず、悪事を重ねるばかりでした。民の怒りや失望ももっともです。先頭に立つ者があまりに不適格なら政権を交代してもらうばかりです。

 

『今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください』5節。こんなにあからさまに自分と息子たちを拒否されてはサムエルも立つ瀬がありません。『そのことばはサムエルの気に入らなかった』6節。サムエルは不愉快なのです。傷ついてしまったのでしょう。サムエルは晩年になって人生の無常風に曝されました。

 

 一人では抱えきれない重荷を、サムエルは主のみ前に持ち出します。サムエルは祈る人です。単に個人の憂いではない、神の民イスラエルの一大事です。このことを神はなんとおぼし召すのか。サムエルは私情を置いて預言者として士師として、主に祈るのです。意外や意外、神からはサムエルの思いを越えた答えがありました。『この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ』7節、なのです。神は、サムエルの心情をくみ取り、切々と慰めるように言い聞かせます。この民はあなたを退けたのではない、わたしを、神を、退けたのだ、出エジプト以来、彼らのした事といえば、わたしを捨ててほかの神々に仕えたことだけだったと。サムエルより先に失望し嘆いていたのは神なのです。

 

 神はため息の塊のようなお心の内を語ります。まるで被害者の先輩と後輩の分かち合いのようです。しかし神は同病相哀れむにとどまるお方ではありません。預言者サムエルに、王とは何か、王は民に何を求めるのか、そのきびしい義務を残らず告げ知らせよと命じます。

 

 サムエルは、王制とは王の奴隷になって軍務に服すること、畑や家畜の収穫の十分の一を納税すること、家族、使用人を労働力として提供することなど、今までになかった過大な義務を負うことになると告げ、それでも王がほしいかと民に迫ります。民はそれだけ聞かされてもなお『いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません』19節。しっかり語った神のことばとしっかり受けた民の言葉は神に受け入れられました。ついに神はおおせられました『彼らにひとりの王を立てよ』22節。

 

 さあ、鶴の一声、いや、神の一声です。以後、イスラエルは王制を導入し、軍事国家の色あいを濃くしていきます。しかし、王を選ぶのは神です。まだ神による政治国家、神政政治です。この後、王位は継承されていくことになります。イスラエル始まって以来の方向転換にあたって、最初の王になる人はだれでしょう。サムエルは早く言えば強制引退です。新しい王を指名して座を譲ることになります。

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  • 2017.08.25 Friday - 16:20

サムエル記を愛して その7  

サムエル記第一・第七章 戻った神の箱、第一線に立つサムエル

 

 サムエルは出生以前から大きな存在感で登場しました。全イスラエルはサムエルが神の選んだ預言者であることを認めましたが、若い時代のサムエルが具体的にどんな預言者活動をしたのかは記されていません。サムエルの登場しないサムエル記が四章、五章、六章と続きました。その間の出来事と言えば『神の箱』騒動ばかりでした。最終的に、箱はキルアテ・エアリムのアビナダブの家に運ばれ、エルアザルが守ることになったのでした。

 

 それからなんと二十年が過ぎていきました、2節。この二十年も、イスラエルは絶えずペリシテの攻撃を受け、傷め苦しめられ、それをどうすることもできない苦渋の年月を過ごしたのです。その間に、神への信仰心は低迷し、人心は荒廃し、国中のいたるところは手ごろな偶像であふれていたと思われます。 

しかしさすがは神の民です、そのまま朽ちることはありませんでした。『イスラエルの全家は主を慕い求めていた』2節。

 

 ようやくサムエルの名が現れました。すでに壮年を過ぎたでしょうか、サムエルは時機到来とばかり立ち上がって民に言います。異教の神々を捨てて主にのみ仕えるなら、主はペリシテ人から救われると。民はサムエルに従います。全イスラエルはミツパに集まり、サムエルのリードによって民族的一大礼拝がささげられました。サムエルの祈りがあり、民は水を注ぎ、断食と悔い改めをもって主の前にひれ伏します。この光景を目の当たりにして久しぶりに神も満足されたことでしょう。

 

 一方、イスラエルがミツパに集結したことを知ったペリシテ人は、すぐに戦いを挑んできます。彼らは内心ではいつもイスラエルを恐れているのです。ところがイスラエルはまたも動揺します。しかし今回は神の箱をかつぎだしてはきません。神の人サムエルに助けを求めます。ペリシテ人の手から救ってくれるように神に祈ってくださいというのです。民の信仰が変わってきています。おまじない信仰ではなく生きておられる神様への信仰です。民は全焼のいけにえをささげて一心に神に寄り頼みます。

 

 神は働かれました。突然、ペリシテ人の上に天から雷鳴が響き渡ったのです。地が震え、立っていられないほどの轟音に怯え、パニックに陥ったペリシテ人をイスラエルが攻撃し、追い詰めます。イスラエルの大勝利です。ずっと負け戦続きのイスラエルが勝ったのです。

 

 サムエルは勝利の地点に【エベン・エゼル】『主はここまで助けてくださった』と、石を立てて記念とします、12節。これは以後のイスラエル、またサムエルの人生をも大きく変えていく転換点でした。

 

 神の用意したご計画なのですが、私たちの人生にも思わぬ転換地点があるものです。大勝利から始まる転換もあれば、大敗北から始まる転換もあります。その先に何が待っているかは神しかご存知ないのです。ただし『ここまで主が助けてくださった』事実は動かすことはできません。自分の『エベン・エゼル』を握りしめて未知、未来へと進んでいきたいものです。

 

 その後サムエルは全イスラエルを掌握し、政治的に宗教的に民をさばいていきます。サムエルの全盛時代といえましょう。

 


  • 2017.08.01 Tuesday - 20:45

サムエル記を愛して その6  

サムエル記第一・第五章 たらい回しの神の箱 

 

 思わぬ勝利を収めたペリシテ人は、奪い取った神の箱を意気揚々と自分たちの神であるアシュドデにあるダゴンの宮に運び、ダゴン神の像のそばに安置します。安置とありますから恭しくていねいに扱ったのです。一つ宮に、自分たちの神と天下無敵のイスラエルの神の箱まであるのです。ペリシテ人は単純すぎます。無節制すぎます。

とんでもないことが起こります。翌朝、ダゴン像は神の箱の前にうつぶせに倒れていました。次の日はもっと大きな事件が起こりました。ダゴンの胴体だけがうつぶせに倒れ、頭と両腕は敷居のところにあったのです。像はバラバラに切り離されてしまいました。さらに、です、アシュドデとその周辺の人々に腫物ができました。イスラエルの神のわざであることは明らかでした。

 

 恐れた人々はペリシテ人の領主全員を集めて『神の箱をどうしたらよいでしょうか』8節、と相談します。神の箱は今や災いの元凶、厄介者です。その結果『ガテへ』うつされたのですが、そこでもまた腫物ができ、皆震えあがります。今度は『エクロン』へ廻されます。エクロンの人たちは『私たちを……殺すのか』と怒りの抗議をします『神の箱をもとの所に戻っていただきましょう』11節。またまたペリシテの全領主が集まって相談です。一様に抱いた不安は死の恐慌です。イスラエルの神が生殺与奪の神であることを知っているのです。

 

 

サムエル記第一・第六章 神の箱はイスラエルに

 

 この章にもサムエルの姿はありません。

 前章に続いてペリシテ人の国は相変わらず神の箱一つをもてあまして大騒ぎを続けています。ついに神の箱は野原に放りっぱなしにされます。雨ざらしにしたとは思えませんが。

 

 やがてペリシテ人たちの考えは決まったのです。それはもとのところに戻すことでした。奪う前のもとの場所、イスラエル領内です。しかし『どのようにして、それをもとの所に送り返せるか』2節、です。迂闊なことはできません。なにしろ神の箱ですから。そうこうしている間に七か月が過ぎてしまいました。

 

 国中の有識者やその道に精通した人たちの意見を集約して、ペリシテ人の王たちが出した結論は、授乳中の二頭の牝牛に新品の車を引かせ、荷台には、まず神の箱を乗せ、そのそばに罪滅ぼしのしるしとしてペリシテの王の数に従った五つの金の腫物とネズミの像を入れた鞍袋を置き、イスラエル領内に向かって放つことでした。これが全ペリシテがあらゆることを想定して必死で考え出した策でした。

 

 思いますに、ペリシテ人は、一致団結して熱心に真剣にことに体当たりする、素朴で純粋な民族なのかもしれません。不思議なことに牝牛はかわいい我が子牛のほうへ向きを変えることもなく、まっしぐらにイスラエル領内のベテ・シェメシュへ入って行ったのです。牝牛を導いたのは神の他にはおられません。神はペリシテ人のアイデアを受け入れられたのです。


  • 2017.07.17 Monday - 13:32

サムエル記を愛して その5  

サムエル記第一・第四章 サムエルの預言の成就・エリ一族の滅亡

 

 三章の終わりは『サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった』と締めくくられ、地にあまねくサムエルこそ主が遣わした預言者であることが知れ渡りました。もう愛らしい少年サムエルの姿はありません。颯爽とした青年サムエルの登場です。とはいえ、次にサムエルの名が見えるのは七章です。その間は過渡期であり、エリを中心とした支配体制が完全には終わっていないことを示しています。

 

 そのころ、イスラエルを悩ましていた外敵はペリシテ人です。彼らは隙をついてはイスラエルを攻撃してきます。それを迎撃するためにイスラエルはエベン・エゼルに陣を敷きますが、たちまち打ち負かされ、四千人が戦死します。長老たちは、なぜ主が我々を打ったのだろうと、敗因を主のせいにするのです。そして、勝利するためには主の箱を陣地に運んで来ればよいと決議し、主の宮のシロからかついできます。エリの二人の息子ホフニとピネハスも付き添っています。大事な神の箱を持ち出された老祭司エリは、この成り行きにどんなにか心を痛めたことでしょう。

 

 さて、神の箱がエベン・エゼルの陣地に到着すると、民は大歓声をあげて喜びます。神の箱は、神の臨在の象徴ですから、百万の味方より力強く思えたのです。しかし、神の箱の中に神がおられるのではないのです。箱がなければ神はいないのではないのです。箱だけあればいいというのでは、見える物への信仰になってしまいます。箱があってもなくても、神は信ずる者のそばにいてくださるのです。

 

 ところが遠くからこの様子を見ていたペリシテ人は動揺します。神の箱が敵陣のど真ん中にあっては負けいくさになるのは一目瞭然。彼らは言うのです『ああ、困ったことだ。だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれよう。ペリシテ人よ。奮い立て』8、9節。出エジプト以来のイスラエルの神の力に恐れおののくペリシテ人は決死の覚悟で戦います。一方イスラエルは天下に並び無き神の箱を誇り慢心し気を緩め、おまじない信仰で戦いに臨みました。

 

 人の心を見られる神はどちらに勝利の軍配をあげたでしょう。残念ではありますが、勝ったのはなんとペリシテ人だったのです。結果はさんざんでした。

 

 戦場から走ってきた伝令はつぶさにエリに伝えます。エリは九八歳で盲目になっていました。それでも道に座って戦況報告を待ちわびていました。伝令は言います。『あなたのふたりの息子ホフニとピネハスは死に、神の箱は奪われました』17節。悲報を聞くとエリは倒れ首の骨を折って息絶えます。ホフニの妻は夫の戦死を聞いたショックで陣痛が起こり、出産すると死んでしまいます。死の間際に「栄光がイスラエルから去った」といって、我が子に『イ・カボテ』と絶望の名前を付けるのです。なんという悲劇でしょう。 

 

 こうして祭司エリの家族一同は死んでしまいます。神が再三再四忠告警告したとおりでした。嫁まで死んだとはさばきの厳しさを物語っていると思います。しかしわずかな希望が見えます。生まれたばかりのイ・カボテくんです。親はなくても子は育つといいますから、心ある女性たちが世話をしたことでしょう。彼が、まっとうな祭司になったかどうか、歴史は語ってくれませんが、祈りたい思いに駆られます。

 


  • 2017.06.29 Thursday - 10:02

サムエル記を愛して その4  

サムエル記第一・第三章 主よ。お話しください。しもべは聞いております。

 

 聖書の中には特別に記憶され、親しまれ、折に触れて引用される重宝なみことばがいくつもありますが、少年サムエルのこの祈りの一句はあまりにも有名です。教会の公の祈りの場で、必ず冒頭にこれを掲げて祈りを始める方を知っています。また、少年サムエルの祈る姿をかわいらしく描いた聖画はキリスト教の書店にはどこにも見られますし、カードや絵はがきも作られています。見ているだけで、祈りの姿勢と思いを正されます。

 

 三章の舞台はエリとサムエルに集中しています。神はエリを罪ゆえにもはやご自分の器としては用いることができず、さばきの宣告をして退けようとしておられます。代わる器は幼いサムエルなのです。神は老齢者を退けて若い人を用いるのでしょうか、神がそんな月並みな物差しをお持ちでないことは自明のことです。

 

 ある夜神は、エリのそば近くに仕えていた少年サムエルに、声を掛けます。夜遅くに人の声がすれば師エリ以外にいません。サムエルは飛ぶようにエリのところに駆けつけます。子どもではありますが、サムエルはある種の緊張感を持ち、あるいは強い霊をいただいていたのでしょう。すぐに目覚めたのです。エリは言います、『私は呼ばない。帰って、おやすみ』5節。エリは温和な祖父のようです。同じことがまたありました。さらにもう一回ありました。サムエルはそのたびに疑いもなくエリのところに行きます。ここにサムエルの純粋さが現れていると思います。三回も全く同じことするのは簡単なようでなかなかできることではありません。

 

 一方、エリは、はたと悟ったのです。サムエルを呼んでおられるのは主であることを。神は自分ではなくサムエルを呼んでおられることを。三回目でわかったのかもしれません その時のサムエルの瞳はわずかなともしびの下でも澄み輝いていたことでしょう。エリはサムエルの顔を覗き込むようにして言います。『今度呼ばれたら、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と申し上げなさい』9節。

 

 しばらくして『主が来られ、そばに立って「サムエル。サムエル」と呼ばれた』。サムエルは「お話ください、しもべは聞いております」と申し上げた』10節。

 この箇所こそサムエル記の真骨頂でしょう。預言者サムエルのデビュー、初舞台です。神に直接声を掛けられた者が、真正面から直接聞き、預かった言葉をそのまま直接人に伝える、これが預言者の働きなのでしょう。とはいえ、サムエルが聞いたことはあまりにも深刻で、幼いサムエルにはとうてい負いきれない重いものでした。すでに二章で、神がエリに告げたと同じ内容で、エリの家への厳しいさばきの宣告でした。サムエルは尊敬する先生エリに語るのを恐れました。預言者としてのサムエルの苦悩が始まりました。

 

 二章と三章の間にはどのくらいの時間が経過したかわかりませんが、もし、エリが、二章での神の警告を聞いて悔い改め、息子たちをしっかり諭し、息子たちも遅まきながらも神に従っていたら、神様もサムエルもこれほど心を痛めることはなかったでしょう。

 

 エリは夜の明けるのを待ちかねてサムエルにすべてを話させます。サムエルは震えながらもけなげに残らず語ったのです。それを聞いたエリは『その方は主だ』18節、と全面肯定します。エリもまた震えていたことでしょう。

 


  • 2017.06.16 Friday - 22:28

サムエル記を愛して その3

サムエル記第一・第二章 明暗分かれるエルカナとエリの二つの家族模様

 

 サムエルを産んだハンナは母の情愛を惜しみなく注ぎながらもそれに溺れることなく、次の行動に移ります。祈りの約束を果たすためです。それはサムエルを主にささげることでした。ハンナは気丈にも乳離れするとすぐにサムエルをエリのところに連れて行きます。

 

 聖書は短くですが、言います。『その子は幼かった』24節。聖書が言っているのです、痛々しくて胸が詰まってきます。ハンナは泣かなかったでしょうか。そんなことはいらぬ詮索でしょう。エリの前に出たハンナはここまでの経緯をつぶさに話します『主は私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします』28節。エルカナ夫婦は主の宮で礼拝をささげます。思えばエルカナは心の広いやさしい夫なのです。

 

 ハンナは喜びに満たされて感謝の祈りをします。ハンナは闇の時も光の時も祈るのです。ハンナは祈る女性です。この祈りは神への賛美で満ちていました。イエスの母マリヤが祈り歌ったように。旧約からハンナが、新約からマリヤが、それぞれの舞台で歌い上げる歌が一つになって響き渡って聞こえてくるようです。

 

 その後エルカナとハンナ夫婦は毎年、サムエルのために上着を作っては主の宮に出かけました。そのたびにエリはこの夫婦を祝福して祭司の役を務めました。エリの祈りがきかれたのでしょうか、神はこの家庭に三人の息子と二人の娘を与えました。なんと言う恵み、なんという大きな祝福でしょう。この家庭にはもはや以前のような波風は立たず、ハンナが泣くこともなかったのです。

『少年サムエルは、主のみもとで成長した』21節。

 

 以後、サムエル記にエルカナとハンナの姿はありません。完全に……。バトンはサムエルに渡されました。『主のみもとで成長』するサムエルに。ここに神の完全が見えます。

 

 22節からは一転、黒雲が急襲して恐ろしいほどの闇が覆いかぶさってきます。闇の下にいるのは祭司エリとその家族です。息子たちは悪辣でした。祭司職はモーセの兄アロン以来この家系に世襲されてきたはずです。その役職の光栄とそれゆえに求められる責任も事細かに代々、幼い時から教え込まれてきたはずです。エリは『なぜ、こんなことをするのか。そういうことをしてはいけない』と昏々と忠告します。しかし、エリの息子たちは聴く耳を持ちませんでした。エリは主のみ前に深く悲しみ嘆いたことでしょう。

 

 そこに突然『一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された』26節が闇を裂く一筋の光線のように走ってきます。希望の光、神のほほえみのようです。

 

 また、暗転して、一人の神の人がエリを訪れて、27節から36節まで、ながながと身も凍るようなエリの家族について警告と予言をします。神の人とはだれでしょう。折々に神が遣わす預言者でしょうか、天の使いでしょうか、あるいは神ご自身かもしれません。神の人はまず、エリ自身の祭司職への不忠実をなじります。神よりも息子たちを重んじたと。エリは子どもには甘かったのです。神の人は『あなたのふたりの息子、ホフニとピネハスはふたりとも一日のうちに死ぬ』34節、と宣告するのです。

 

 ひたすらに神を愛し従い、神に喜ばれ祝される我が家族、親族でありたいと願います。


  • 2017.06.05 Monday - 21:39

サムエル記を愛して その2

【サムエル記】は第一が三一章、第二が二四章、合計五五章から成ります。

分量から見ると、「創世記」の五〇章にほぼ匹敵します。

 ざっと区分けしてみます。

 

★サムエル記第一

一章から七章 預言者サムエル

八章から一五章 預言者サムエルとサウル王・不一致と確執

一六章から三一章 サウル王とダビデ

★サムエル記第二

一章から四章 ユダの王ダビデ

五章から八章 統一王国の確立

九章から二〇章 王位継承争い

二一章から二四章 付録

 

 サムエル記の時代はごく大まかに見て、BC一〇〇〇年ごろです。日本はまだ縄文式土器の時代、かのローマ帝国でさえかたちもありませんでした。そんな大昔の出来事が、つい昨日のことのように記されている『聖書』にいまさらながらに驚きます。一冊の本として読めることに言い知れぬ感動を覚えます。

                            

 

 

サムエル記第一・一章 ハンナの懊悩と涙の祈り

 

『エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに……エルカナというひとりの人がいた。……エルカナにはふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ……』1節。

 国家的巨人サムエル、サウル、ダビデを中心にした壮大な【サムエル記】が、一市井のしかも珍しくもない家庭騒動からスタートするのに驚きます。そこには神のどのようなおこころが秘められ、どんな意味があるのでしょうか。この冒頭の語り出しに「むかしむかしあるところに……」を連想して興味津々、またたく間に引きこまれます。

 

 第一章を見ていきます。

 エルカナの二人の妻のうち、ペニンナには十人の子どもがいましたが、もう一人の妻ハンナには一人さえいないのです。今風に言えばハンナは不妊の女性です。当時は、不妊は神から呪われているとの迷惑な烙印を濫用した時代でしたから、当事者の痛みと嘆きはいかばかりだったでしょう。

 

 しかも十人の子を持つペニンナは、勝利者気取りでハンナに嫌がらせをします。同性をいじめるのです。ハンナにとっては傷口に塩をすり込まれるような苦痛でした。夫エルカナに『私はあなたにとって十人の息子以上の者ではないのか』8節、と慰められてもその屈辱を和らげる役には立ちませんでした。悲しいかな、エルカナはハンナの深い苦悩が理解できないのです。そこがまたハンナの嘆きを深くしたことでしょう。

 

 エルカナは毎年家族を連れてシロの神殿へ礼拝に出かけます。家長としての信仰であり、家族にとっては楽しいイベントでもあったでしょう。神に多くの捧げものをし、神のみ前で家族の祝福を求めて祈り、感謝の宴を催すのです。広い神殿内には家族ごとに輪になって、あちらでもこちらでもお弁当を広げる、ピクニックのような風景が繰り広げられたと思われます。辺りは賑やかで華やいだ雰囲気に満ちていたでしょう。ところがハンナにはなによりもそれが苦痛でした。信仰の深いハンナですから神殿に行くのは抵抗がなかったとしても、ペニンナやその子どもたちと同じ輪に入ることは、喜びの宴ではなく、針の筵に座るようでした。

 

 その年、ハンナは涙にあふれて食事が出来ず、やがて席から離れてしまいます。ハンナの苦悶は頂点に達していました。ハンナはそのうめきを神に向けたのです。夫にさえ理解してもらえない苦悩を、ハンナは神のみ前に持ち出したのです。ハンナの選んだその方法こそが、問題解決の糸口になりました。平たく言えば運命の転機になりました。もしハンナが自己憐憫の穴に落ち込み、自暴自棄になり、ペニンナに嫉妬し、夫を憎んで泣いているだけだったら、聖書に登場することもなく今に至るまで信仰者の鏡として尊敬されることもなかったでしょう。

 

 ハンナを一躍神の表舞台に引きだしたのはわずかな心の働きでした。神に向けた心と一筋の細い小さな意志でした。ハンナが立ち上がると同時に神様が立ち上がります。ここを起点として神様が鮮やかに働き出します。神様はこの時までじっとハンナを見つめ、この時を待っていたのかもしれません。『ハンナが立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばに座っていた』9節。神はハンナの行動の見えるところに、祭司エリを派遣したのです。ご自身の使者として遣わしたのです。エリは神の代理人といえます。

 

『ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた』10節。

『ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた』12節。

 ハンナはあたりの喧騒に気付かないほど、時間の経つのも意識にないほど、ひたすら祈り続けます。ときどき嗚咽が肩を震わせ、唇はわなないていたでしょう。ハンナは「神と我」の世界に没入していました。その様子を、神の代理人エリがじっと見ていたのです。しかしエリはハンナの何を見たのでしょう。何を感じたのでしょう。流れ落ちる涙を、背中をよじる嗚咽の波を見たのでしょうか。 

 

『いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい』14節。

 エリがハンナにかけた第一声には仰天します。かりにも彼は祭司ではありませんか。一人の女性がうめきながら祈る姿を酔っていると見て疑わないのです。当時、神聖な主の宮の中ですら、酔っている人がいたのでしょうか、神の民も祭司も同様に信仰は形ばかりだったようです。二一世紀だからと言ってのんきに彼らを笑ってはいられないのかもしれませんが。それにしても、エリはイスラエルの歴史を変える夜明けの、一筋の黎明の役目を与えられたはずです。その名誉ある地点に立たされながら、ハンナの心を見抜けなかったのはお粗末千万です。しかし神はこの老祭司をご自身の器として用いられました。

 

 ハンナは、エリを祭司と信頼すればこそですが、切々と心情を打ちあけます。まるで祈りの続きのようです。エリはようやくハンナを理解します。そして、神の器になりきって祭司として役割を果たします。『安心していきなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように』17節、と適切な言葉をかけてハンナを励まし希望を与えます。さすがは祭司エリ、ここには年季の入った牧会者の的を得た働きが細々ではありますが表れています。

 

 神の前に自分を粉々に砕いて祈りを捧げ、神の代理人、祭司エリから過分な祝福を受けたハンナはそのときすでに別人になっていました。祈りのなかで変えられたのです。『それからこの女は帰って食事をした』18節、気が晴れて、食べ物がのどを通るようになったのです。

 

 このときハンナは、自分の祈りがかなえられると確信したわけではないでしょう。エリも保証したわけではありません。『願いをかなえてくださいますように』と希望の励ましを与えただけです。しかし、ハンナは積年の煩悶から解放され、まるで願いがかなったかのように『彼女の顔は、以前のようではなかった』18節、のです。頬に明るい紅が差し、瞳が輝きはじめていたのでしょう。『以前のようではなかった』のひとことはキリスト者の勲章です。他の人から『以前のようではな』い、と言われてはじめて証しが立つというものです。

 

 その後のハンナにはペニンナのいじめも意味がありません。ペニンナはいじめ甲斐のないハンナに二度と同じ矛先を向けることはなかったでしょう。まもなくハンナは神の介入によって男の子を産みました。この子こそサムエルです。

 


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